ペイオフ凍結は苦肉の策だった インタビュー=西村吉正・元大蔵省銀行局長
東京2信組や木津信金など初期の金融機関破綻処理に携わった経験を振り返る。
(聞き手=種市房子・編集部)
── 金融機関の破綻を意識したのはいつか。
■銀行局長就任(1994年7月)の際、2年ぶりに局内から金融業界の詳細について説明を受けた時だ。この間の地価下落による不良債権の累積には驚くべきものがあり、いくつかの信用組合、信用金庫、地方銀行の破綻は避けられないと覚悟を決めざるを得なかった。具体的には、(後に不正融資事件が発覚した)東京協和信組と安全信組の「東京2信組」や、コスモ信組(東京)、木津信組(大阪)などだ。
しかも当時は、他の金融機関にその穴を埋められるだけの体力が残っていなかったので、従来の護送船団方式による救済は不可能だった。預金保険制度を使っても、資金援助の「受け皿」になってくれる金融機関が見いだせず、当時の預金保険制度ではペイオフを発動(1人当たり元本1000万円までの預金とその利息だけを保護)せざるを得ないことになる。
── ペイオフの世論の受け止めは。
■長年、預金に全幅の信頼を置いてきた日本の社会にとってペイオフは予期している事態ではなく、大混乱に陥るのは必至だった。もちろん法令上はペイオフの制度はあるが、その言葉すら知らない人の方が多かったのではないか。結局、94年に経営破綻した東京2信組については、東京都、金融機関、日銀などが出資する「東京共同銀行」を受け皿として、清算した2信組の事業を譲渡し、預金を全額保護する形となった。
── 96年には、不良債権処理の一般的手法を定めた「金融3法」が成立しました。
■ポイントは預金保険法の改正で、5年間ペイオフを凍結した。その間に不良債権処理やディスクロージャー(情報公開)制度の整備など、ペイオフ発動にも耐えられる環境を整備することにした。
当時の世論は市場原理が強調されており、ペイオフ凍結や破綻金融機関への公的資金投入などは、むしろ批判の対象であった。しかし、リーマン・ショック(2008年)後、欧米諸国でもこれらの手法は世界各国で実施された。今から見れば、日本が世界の先例となったわけだが、追い込まれてスキームを作っただけで、褒められたことではない。
■人物略歴
にしむら・よしまさ
1940年生まれ。63年、大蔵省入省。銀行局審議官、財政金融研究所長を経て94~96年大蔵省銀行局長、96年退官。現在、早稲田大学名誉教授。