経済・企業ノーベル経済学賞 RCT革命

貧困対策 データで実証 開発経済学に新風=高野久紀

    上からバナジー氏、クレマー氏、デュフロ氏(Bloomberg)
    上からバナジー氏、クレマー氏、デュフロ氏(Bloomberg)

     2019年のノーベル経済学賞はアビジット・バナジー・マサチューセッツ工科大学(MIT)教授、エステール・デュフロ・MIT教授、マイケル・クレマー・ハーバード大学教授の3氏に贈られた。受賞理由は、「世界の貧困削減に対する実験的アプローチ」への貢献である。

     科学や生物の実験では、研究者が特定の化学物質や薬品などを与えて、経過を観察して効果・効能を調べる。同様にバナジー氏らは、研究者が政策・プログラムを与え、経過を観察するという「実験的アプローチ」でさまざまな貧困削減政策の効果測定を行ってきた。

     特に、政策効果をバイアス(偏り)なく測定するために、政策を与える人と与えない人をランダムに決めて両者の比較を行う「ランダム化比較試験(RCT=Randomized Controlled Trial)」を採用した。実際に政策を本格的に実施する前に、RCTを行ってその効果を検証し、効果が大きいと実証された政策を選択的に実施することで、限られた予算で世界の貧困を効率的に削減することが可能になる。

     また、新しい政策を実施しようとする場合、反対意見や懸念も出て議論が平行線のまま長引くことも多いが、まず小規模にRCTを実施して効果を検証し、反対者が懸念するような事例が全体的に見て重要かどうかも検討することで、意思決定プロセスを迅速化・透明化できる。

     昨今よく、「エビデンスに基づく政策形成(EBPM=Evidence-based Policy Making)」という言葉を耳にするが、実際に途上国で多くのエビデンスを積み上げ政策形成に寄与してきたバナジー氏らの一連の研究が、EBPMの潮流を作り上げたのである。

    J─PALの設立

    (出所)J-PAL(2005)より筆者作成
    (出所)J-PAL(2005)より筆者作成

     バナジー氏とデュフロ氏は、03年にMIT内に「ジャミール貧困対策ラボ(通称J-PAL(ジェイパル)、Abdul Latif Jameel Poverty Action Lab)」という研究所を立ち上げ、世界中でRCTを実施する研究体制を作り上げた。J-PALは途上国政府やNGO(非政府組織)、援助機関ともパートナーシップ関係を結んでおり、データが公開されているだけでも1000近いRCTを83カ国で実施してきた。J-PALに触発され、米国の有力大学でも類似の機関が設置され、連携して研究が進められている。

     J-PALはこの膨大なRCTの結果をベースに、途上国のさまざまな問題に対する政策ガイドラインを作成している。たとえば図は、いくつかのRCTの結果に基づき、教育年数を1年延ばすのに必要な費用を計算したJ-PALのリポート(05年)から作成したものである。教員の増員や給食、制服支給などの政策効果が検証されたが、中でもコストが一番低かったのは、体内の寄生虫を駆除する駆虫薬の配布であった。

     途上国では寄生虫感染率が高く、児童の体調不良の原因となっており、クレマー氏らが寄生虫を体内から駆除する駆虫薬を配布したところ、就学年数が有意に増加した。駆虫薬は安価なので、就学年数を1年延ばす費用は他の政策よりもはるかに低く、世界中で駆虫薬配布プログラムが実施されるようになった。J-PALはすでに15年以上も前に途上国におけるEBPMの実施をサポートしていたのである。

    研究者自ら政策考案

     バナジー氏らが推進したRCTは、途上国の開発問題の研究に非常に有用なツールであり、開発経済学の研究スタイルを一変させた。

     開発経済学は、第二次世界大戦後の途上国の経済開発を考察する中で生まれた学問分野であり、初期の代表的な研究は、1954年のアーサー・ルイス氏(79年にノーベル経済学賞受賞)の論文を出発点とする二重経済モデルである。ルイス氏の二重経済モデルは、農村の余剰労働力という途上国特有の経済構造に注目した発展理論であり、その後、途上国の市場構造の特殊性を考慮に入れた経済発展理論という形で研究が進展した。

     ただし、こうした理論もあくまで仮定のもとに構築された理論モデルであり、それらが真に正しいという保証もなければ、それらをもとに考案された政策処方箋が期待通りに機能するという保証もない。一方で、80年代には途上国の債務超過や為替危機が生じ、世界銀行の提示した構造調整政策を実施した国々で多量の失業が生じて経済状況が悪化するケースも多発したため、経済学のモデルは非現実的な仮定に基づいていて現実妥当性がないと「反経済学」の態度を鮮明にする開発学者も多く出てきた。

     しかし、80年代後半になると、アンガス・ディートン氏(15年にノーベル経済学賞受賞)を中心に世界銀行が主導して途上国で大規模家計調査を実施するなど、データ整備が急速に進んだ。同時にデータ分析ソフトウエアの普及や計量経済学の手法の発展により、仮定に基づいたモデル分析から、データに基づく実証分析へと研究の比重が次第にシフトしていった。90年代には因果効果を計測するための手法に関する研究が進み、EBPMへの素地ができていった。

     そして00年代になると、RCTや他の計量手法を用いて政策やプログラム、経済制度の因果効果を分析する研究が盛んに行われるようになった。特にRCTは、因果効果を正確に評価できるという統計学上のメリットだけでなく、貧困削減政策を考案し、NGOなどローカルな政策実施主体と共同し、貧しい人々のために実際に政策を実施できる手段を研究者に与えた。通常の実証研究では、実際に行われた政策しか評価できないが、RCTを行えば、研究者が革新的な政策を考案して実際に実施し、人々の生活を向上させることもでき、効果が実証された新たな政策として他地域での実施を呼びかけることもできるのである。これにより、研究者に貧困削減とより直接的に向き合う機会が与えられ、貧困削減に関心のある多くの優秀な学生を開発経済学の道に呼び込むことにもつながった。開発経済学は一躍、多くの大学でトップ級の人気分野となったのだ。

     さらに10年代になると、「どのような政策が効果があるか」という効果測定だけでなく、「なぜ効果があったのか(なかったのか)」というメカニズム解明に、より関心が注がれるようになった。貧困削減政策の効果は、政策に人々や企業、市場がどう反応するかに依存している。それらのメカニズムに関する理解は、同様の貧困削減政策を他の地域で実施しても成功しそうかどうか(外的妥当性)を検討する際に大きな助けとなる。

     非合理な人間の行動をモデル化した行動経済学の研究成果も盛んに用いられるようになった。たとえばデュフロ氏とクレマー氏は、ケニアの農民が収量増加効果の高い肥料を購入しない理由として、人々が「将来も買えるので今買わなくてもよい」と考えて購入を先延ばしにする結果、肥料が必要となる時点ではすでにお金を使い切っていて買えない、という「先延ばし効果」に着目。RCTを実施した結果、収穫後に期間限定で引換券を販売して先延ばししにくくすることで肥料購入率を大幅に上昇できることを示した。

    大規模展開に課題も

     ただし、RCTは万能ではない。まず、RCTは小規模での実験なので、それをスケールアップした時に同様の効果が期待できない可能性がある。たとえば職業訓練のRCTを行い所得が向上したという結果が得られたとしても、職業訓練を全国的に実施した場合、多くの人々が同じ職業訓練を受けてスキルの希少価値が下がり、賃金が低下する可能性がある(一般均衡効果)。

     また、RCT実施の際には、実施機関は大きな効果が計測されるよう努力する(実験効果)。しかし、いったん政府の政策としてスケールアップされ、効果の測定も行われなくなれば、RCT実施時のような努力をせず、想定していた効果が得られないかもしれない。

     さらに、RCTは多くの調査対象者にランダムに政策を割り振って効果を測定する方法なので、民主主義の影響や政府の金融政策、産業政策など、一国全体に影響を与えるような政策の効果を測定することはできない。そして国家開発に重要なのはこうした一国全体の経済政策である場合も多く、この実験的アプローチに対しては、目指しているものが小さすぎるという批判もある。

     RCTはあくまでツールであり、貧困削減に重要なのは、いかに重要な仮説を見いだし、その妥当性を検証していくかである。多くの援助機関やNGOがRCTを行うようになっているが、より効果的な貧困削減政策の形成につなげていくためには、人々の行動や市場の仕組みに関する理解をさらに深めていかなければならない。クレマー氏の言葉を借りれば、重要なのはリサーチクエスチョンと、そのクエスチョンに対していかに信頼できる方法で答えていくかであり、それこそが世界が必要としているものなのである。

    (高野久紀・京都大学大学院経済学研究科准教授)

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