週刊エコノミスト Onlineワイドインタビュー問答有用

「出前歌説法」600回=南慧昭・南陽山勝光寺住職/825

    「父のたたく木魚とお経で育ち、大人たちの前で歌うと毎回やんやの喝采でした」 撮影=佐々木龍
    「父のたたく木魚とお経で育ち、大人たちの前で歌うと毎回やんやの喝采でした」 撮影=佐々木龍

     建立から800年を超す曹洞宗の「勝光寺」(大分市)。源頼朝や大友能直ゆかりの古刹だ。住職となって15年、歌いながら仏の教えを説く「出前歌説法」と銘打った独自の布教活動に心身を捧げている。

    (聞き手=冨安京子・ジャーナリスト)

    「誰もが歌うにつれ、渋面が笑顔になります」

    「末弟の(南)こうせつからは、『兄さんもライブですか』なんて茶化されます」

    ── 曹洞宗「勝光寺」(大分市)の住職として、「出前歌説法」を各地で続けています。他の説法とどう異なるのですか。

    南 歌説法とは歌って心の安寧を得る行で、これが他のお寺さんと少し違うのかもしれませんね。といっても難しいものじゃありませんよ。約1時間半の説法のうち30分ぐらい、多くの人が知っている童謡や私が作った曲の中から4~5曲を選んで、皆さんと一緒に手拍子を打ちながら大きな声で歌うだけ。そうすると不思議なことに渋面が笑顔になります。誰もが歌うにつれ、日ごろの憂さや悩みが軽くなって、気持ちが次第に落ち着いてくるんですね。(ワイドインタビュー問答有用)

    ── 説法ではどんな話を?

    南 法衣をまとってマイク片手に、静かに説法を始めます。難解でとっつきにくい仏教の教えをできるだけ現代用語に訳しながらやさしく話し、説法そのものを皆さんに楽しんでもらうんです。時には「心の健康」をテーマにひきこもりやパワハラ、セクハラ、ドメスティック・バイオレンス(DV)など時事ネタを込めたり、3分から10分ぐらいの短い座禅を組んでもらったりもします。

    ── 「出前」とは?

    南 請われれば全国津々浦々どこへでも出かけて行って歌説法をするためで、小中学校や介護・福祉施設、公民館や民間企業などから声をかけてもらい、住職となった2005年からこれまで約600カ所を訪ねました。教本や法衣や袈裟(けさ)懸け、説法の資料などの大荷物をまとめてあちこち出かけるんですが、末弟のこうせつ(シンガーソングライターの南こうせつさん)と訪問先がだぶっていたりすると、こうせつからは「お、兄さんもライブですか」なんて茶化されます。でも最近は新型コロナウイルス禍で、出前は一時中断せざるを得ません。残念ですね。

     歌説法で取り上げる曲は「赤とんぼ」や「夕焼け小焼け」といった童謡のほか、自身が作曲、作詞はうめこうじ孝史氏による「我が家が一番」「Sixty~3回目のハタチ~」、そして「♪鵬(おおとり)悠然 天を舞い 碧(あお)き水面に川せみ遊ぶ」と、地元大分市内を流れる清流を歌った「大野川讃歌」など3、4曲。どれもほのぼのとしたフォーク調の歌で、南さんの伸びのある美しいテノールが生きる。うめこうじ氏は、南さんが住職になる前に勤めていたキユーピー時代の先輩だ。

    秋葉原事件に衝撃

    東日本大震災後、宮城県女川町で行った出前歌説法。高台にある照源寺に約100人もの人が集まった(2011年) 南慧沼さん提供
    東日本大震災後、宮城県女川町で行った出前歌説法。高台にある照源寺に約100人もの人が集まった(2011年) 南慧沼さん提供

    ── 出前歌説法を思いついたきっかけは何でしょう。

    南 08年6月に起きた秋葉原通り魔事件(秋葉原無差別殺傷事件)に、私は大きな衝撃を受けました。当時は住職に就いて間もないころ。バブル崩壊の余波が収まらず、世の中は学校でも職場でもいじめが増え、自殺者が急増していたのです。日本は確かに豊かになり、努力すれば夢のマイホームやマイカーが手に入るようになりました。けれど、豊かになることが人生の目標となってしまい、あらゆる場面で競争が激化。個人も企業も慈しみの心がなくなり、人々は先の見えない不安に襲われていました。

    ── そうした時代の象徴が、秋葉原の事件だったと。

    南 はい。私にはそう思えてなりませんでした。加えて、そうした社会構造の一翼を担っていたのが、36年間ビジネスマンとして働いた私と、私たちの世代だったんだと。僧侶になりたての私には、人間のあくなき物欲に対する天からの戒めのようにも思えたのです。そんな時、曹洞宗の長老から「あなたは長年会社勤めをし、音楽活動も続けてきた。若い人たちにお寺に来て心の平穏を得てもらうために、その経験を生かして新しい布教活動をしてみたらどうか」と諭されたのです。

    ── 音楽との接点はどこから?

    南 昔の寺は、青年団や消防団、それに子どもの日、敬老会などで地域の人が集まる場所でした。地域の中心に寺があって、檀家(だんか)との結びつきも今より濃かった1940年代の話です。寺で祝い行事があると婦人部が鶏飯などを作り、大人たちは本堂で酒を酌み交わし歌ったり踊ったりの大宴会になったものです。私は勝光寺の長男として生まれ、姉(治子さん)が1人、弟が2人(光洋さん、高節=こうせつさん)います。そうした大宴会の場が盛り上がると、きょうだい全員が呼び出され、酔っぱらった大人たちが「お前たちも何か歌え」と言うので、姉から順番に一人ずつ、童謡や歌謡曲を歌いました。

    ── 4人とも小さいころから歌を披露していたんですね。

    南 幼いころから、父のたたく木魚とお経で育っていますから(笑)。調子に乗ってジャズのリズムを木魚で打ち、父に叱られたことも何度かありましたけどね。大人たちの前で歌うと毎回やんやの喝采を浴び、その後、私たちは何かと音楽と縁のある生活をすることになります。姉は自動車販売会社に勤めながら地元の合唱団で歌い、イベントや放送局からの出演依頼もあって、姉が歌うコマーシャルソングなどがラジオから流れていました。

    音楽にのめり込む

    ── こうせつさんの活躍は言うまでもありませんね。

    南 こうせつは明治学院大学に入学後、フォークグループ「かぐや姫」を結成し、「酔いどれかぐや姫」「神田川」など次々にヒットを飛ばしました。私はといえば、中学生の頃は音楽より陸上と野球で、高校(県立大分舞鶴高校)では水泳部のキャプテンを務めましたが、部員の中にはオリンピックを狙うほどの実力の持ち主が数人います。これはかなわないと、高校では応援団にも籍をおいて高校野球や運動会で活動したのが、音楽との再会となりました。

    ── その後の音楽活動は?

    南 61年に鹿児島大学水産学部に入学した後、男声合唱団(グリークラブ)に入り、急性膵(すい)炎で留年を余儀なくされましたが、5年ではクラブのキャプテンに。ただ、メンバーにはバイオリンを習っていた人もいるし、そろって楽譜も読めました。私も負けじと懸命に勉強し、楽譜を読んでピアノも弾けるようになったんです。

    ── 「歌声喫茶」でも活動していたそうですね。

    南 当時、東京はじめ都市部で流行し始めた歌声喫茶が鹿児島に1軒だけありました。今は廃れてしまいましたが、お客さんみんながコーヒーや酒を飲みながら歌う喫茶店で、私は「登城(とじょう)」という店に通い詰めました。店が独自で作った歌集やロシア民謡、唱歌、童謡、歌謡曲などを歌っていたら、「店のオーナーがリーダー格の歌手を探している。君、やってみないか」と大学の先輩に推薦されてね。やがて夜はジャズやハワイアンなんかも歌い出し、地元ではそれなりに知られる存在になりました。

     南さんが音楽にのめり込み、地元から離れた理由がもう一つある。エルビス・プレスリーやビートルズなどの音楽が世界を席巻し、若者文化が花開いた時代。かたや仏教の世界は「封建的で檀家の視線を常に気にしなければならない窮屈な場」(南さん)だった。就職も実家から遠方の東京でと決め、66年にキユーピー入社。仕事の傍ら音楽活動も続け、住み始めた横浜市南区で混声合唱団「コールジョイ」設立に関わった後、指揮・指導を18年間務めた。だが、会社員生活も終盤に差し掛かったころ、実家で後継問題が持ち上がる。

    ── 寺の跡継ぎ問題とは?

    南 長弟の光洋が副住職として住職の父・利雄を支えていましたが、光洋が91年、病気で亡くなり、その3年後、父も脳梗塞(こうそく)で亡くなったのです。その時、中学生のころの母の言葉がよみがえりました。「うちは檀家の数わずか80軒の小さな寺。しかし鎌倉時代、源頼朝の部下だった大友能直(よしなお)公が1196年、大野川に小さな伽藍(がらん)を建立したのが勝光寺の始まりです。そんな由緒あるお寺を4人も子どもがいて誰も継がないというのでは世間様に言い訳が立ちません。そのことだけは忘れないでね」と。

    ── その言葉がしみたのですね。

    南 ええ、何かあれば長男の私が寺へ戻るべきだろうと。会社勤めをしていると、思い通りに生きるだけが人生ではない、思い通りにいかないことにも対処すべきなんだという場面に何度も出くわしますからね。私は当時、キユーピーの子会社「ヴェルデ」に出向した後、社長になっていました。

     ヴェルデでは若者向けのレストラン「ザ・バーン」を東京都内に12店舗展開していましたが、バブル崩壊のあおりを受けてリストラを断行せざるを得ず、店長を解雇するのも私の役目となりました。中には心の病を発症する者もいたし、彼らを路頭に迷わせるわけにはいかないと思い、店長全員の再就職に走り回りました。

    「仏教」を再認識

    坐禅では足と手を組み雑念を捨て、今を生きることの意味を考える 撮影=佐々木龍
    坐禅では足と手を組み雑念を捨て、今を生きることの意味を考える 撮影=佐々木龍

    ── 02年に60歳でキユーピーを退職しますが、前後して駒沢大学仏教学部に入り、本格的に仏門を目指します。曹洞宗大本山の総持寺(横浜市)や永平寺(福井県永平寺町)での修行も経て、再び見えてきた景色は?

    南 仏教とは人を救済するためだけにあるのではないということ。命とは、人間とは何か、生きることの意味は何なのかとギリギリ追求することを教え諭すものだということを知りました。私の場合、会社人間を経て年齢も経験も重ねた上での入門だったからこそ、説法もそれを反映した言葉遣いと内容になっているのではないかとひそかに自負しているのです。

    ── 曹洞宗は座禅を教えの根幹としています。

    南 座禅とは生きることの意味を問う姿勢が具現化したもの、形です。雑念を退けただひたすら静かにすわり続ける「只管打坐(しかんたざ)」を重視します。座禅で答えが出るかどうか、それは分かりません。でも、人はどんな不幸に見舞われようが、思い通りにいかないことが起ころうが、それを受け入れ、今この瞬間を大事に思い、「今を、生きる」しかないのだと悟ります。私もまたそうしたいものです。

    ── 19年暮れには妻・玲子さんをがんで亡くしたそうですね。

    南 寺では年末年始の準備に追われていた12月25日の深夜でした。いったんは回復のきざしを見せ、よかったねと喜び合った1年後の急死だったので、大変ショックを受けました。ビジネスマンから住職の妻となり、多くの負担を掛けました。しかし、道昭(どうしょう)と裕昭(ゆうしょう)の2人の子どもに恵まれ、道昭が昨年、副住職となって私の跡を継ぐことになって安心した様子でした。

     葬儀では私は戒名をつけただけで、導師(葬儀で死者に引導を渡す高僧)は道昭にやってもらうことにしました。何より妻が喜ぶだろうと考えたのです。道昭はよく務めてくれましたが、私がいけませんでした。施主としてのあいさつの後、こうせつが作詞・作曲した御詠歌「まごころに生きる」を歌い始めたのですが、途中で泣き崩れ、声が全然出なくなって……。一緒に息子たちが歌ってくれ、何とか歌い終えることができました。

    ── 世界は今、コロナ禍で先行きが見えなくなりました。

    南 コロナ禍で人生観、死生観が大きく変わろうとし、国や個人のあり方も変革を求められています。今後、解雇されたり会社が倒産したり、そんな不幸がさらに顕在化するでしょう。個人で解決できない問題は社会や国が手を差しのべて知恵を出し合い、みんなで前へと進んでいくべき時です。どんな困難も乗り越えてきたのが人間。今回も必ずやこの受難を乗り切ることができると私は信じています。


     ●プロフィール●

    南慧沼(みなみ・えしょう)

     1942年5月、大分県生まれ。66年、鹿児島大学卒業後、キユーピー入社。94年、キユーピーの子会社ヴェルデ社長就任。2002年にキユーピー退職。前年に駒沢大学仏教学部へ聴講生として入り、その後、総持寺参禅会で座禅を学ぶ。03年、実家の曹洞宗「勝光寺」継承のため帰郷。2年間、修行僧堂で修行後、05年に永平寺と総持寺で修行終了。同年に勝光寺で晋山結制の儀式を経て住職となる。末弟はシンガーソングライターの南こうせつ氏。

    インタビュー

    週刊エコノミスト最新号のご案内

    週刊エコノミスト最新号

    2月2日号

    ガソリン車ゼロ時代第1部 激変する自動車産業22 EVで出遅れる日本 市場奪取へ勝負の10年 ■市川 明代/白鳥 達哉26 図解・日本の雇用 製造から販売まで、2050年に80万人減も ■白鳥 達哉28 ガソリン車よりエコ! 生産から廃車まで、EVのCO2排出は少ない ■桜井 啓一郎31 インタビュ [目次を見る]

    デジタル紙面ビューアーで読む

    おすすめ情報

    最新の注目記事