テクノロジーエコノミストリポート

菅政権の看板政策「不妊治療への保険適用」実はこんなにある「ヤバい問題」……「不妊治療大国」日本の現状

    体外受精や顕微授精などの高度な不妊治療への保険適用が検討されている(浅田レディースクリニック提供)
    体外受精や顕微授精などの高度な不妊治療への保険適用が検討されている(浅田レディースクリニック提供)

    不妊治療の公的医療保険適用に向けた議論が7月21日、始まった。2022年4月の適用開始を目指す方針で、年末までに対象範囲を決めるという。『週刊エコノミスト』2021年3月2日号に掲載されたリポートを再掲する。

    2020年秋に就任した菅義偉首相が、「不妊治療の保険適用に取り組む」と宣言したことで、にわかに不妊治療への関心が高まっている。

    政府は22年度から、体外受精などの高度な治療にも保険を適用する方針だ。高額な治療費を支払う女性たちを支援することで、少子化に歯止めをかけようという狙いがある。

    戸惑っているのは、不妊治療の業界関係者だろう。

    保険適用を求める声は患者たちの間でかなり前から上がっていたが、専門家の間では「適用は不可能」という考えが根強かった。

    背景には、不妊治療の複雑さがある。

    今回、保険適用が検討されている「高度生殖補助医療(ART)」には、卵子を体外に取り出し、精子と一緒にして受精させる「体外受精」、卵子の壁に針を突き刺して精子を入れ込む「顕微授精」、できた受精卵(胚)を子宮に戻す「胚移植」が含まれるが、これらは多種多様な技術の組み合わせであり、その内容は施設によって大きく異なる。

    そもそも不妊治療は他の疾患診療と異なり、「標準的な治療」が確立されていない。

    例えば、治療前に卵巣に残っている卵子数を推定する血液検査「AMH検査」一つとっても、「治療に欠かせない」という医師もいれば、「意味がない」という医師もいる。

    特に患者を混乱させるのは、卵巣に刺激を与えて卵胞(卵が入っている袋)を育てる「排卵誘発剤」(注射、内服薬)の扱いを巡る方針の違いだ。

    取り出される卵子のうち妊娠・出産に至るのはごく一部であるため、排卵誘発剤を使って一度にできるだけたくさんの卵子を採取しようとする医師がいる一方で、薬を極力使わない治療法をとる医師もいる。

    顕微授精の第一人者として知られる浅田レディースクリニック(名古屋市)の浅田義正院長は、「施設によって技術力や成功率にも大きな差がある」と指摘する。

    米国では、疾病対策センター(CDC)が施設ごとの成功率を公開しているのに対し、日本では開示のスタンスもまちまちで、患者が病院を選ぶ際に分かりにくいのが現状だ。治療費にも差がある。

    日本では、民間の有名専門クリニックが、高額な治療費を払える都市部のキャリア女性たちに支えられながら、体外受精や顕微授精のノウハウを確立してきた。

    こうした施設では、院長の裁量で海外から高額な薬品を個人輸入し、最高水準の機器を買いそろえる。卵子や胚を扱うスペシャリストである胚培養士を、大学病院ではとても払えないような報酬で引き抜く。

    保険適用となれば、「標準的な治療」とはどんなものなのかを明確にする必要がある。そこで、関係する学会が急きょ、ガイドラインをまとめることになった。

    ただ、高額な専門クリニックと、限られた予算内で治療する一般の医療機関に、一律の報酬を適用するのには無理がある。

    保険点数が低すぎれば、専門クリニックの経費削減が進み、妊娠率が下がるだろう。コストのかかる治療が自費扱いとなれば、高度な治療を受けなければ妊娠できない患者たちの負担軽減につながらない。

    一方で、保険点数がより高く設定されれば、高い診療報酬を目当てにした質の低い新規参入施設が出てくる可能性がある。

    保険点数に合わせて国が高い治療水準を求めれば、それに応えられない施設が多数出て、地方に不妊治療の空白地帯が広がるだろう。

    厳しい40代の妊娠・出産

    保険適用によって、治療を受ける夫婦にとって「産みやすい」環境が整うかどうかも未知数だ。

    日本は「不妊治療大国」と言われる。18年の体外受精・顕微授精の総治療件数は、約45万件に上った。

    一方、世界の体外受精の成績をモニタリングしている国際生殖補助医療監視委員会(ICMART)の報告によると、日本は1回の採卵当たりの出産率が60カ国中最下位だった。

    体外受精の成功率は、男性の年齢も影響するが、結果を大きく左右するのは女性の年齢だ。加齢に伴って卵子が「老化」し、流産のリスクも高まる。

    日本産科婦人科学会の18年の統計によると、1回の治療によって出産に至る確率は、20代後半から30代初めが20〜23%と最も高く、30代半ばから徐々に下がり、40歳で10%を切る。

    43歳では3・1%、45歳では1・1%にとどまる(図1)。

    日本は、40歳以上の不妊治療患者の割合が世界的に見ても非常に高い。

    体外受精は本来、「卵管が塞がっている」「精子が作られていない」といった医学的な問題を抱える夫婦を救うための治療であるはずだが、日本においてはもはや「加齢と闘う医療」になっているのである。

    「ほとんどの人が望みをかなえられない治療」に保険適用を認めるべきなのか、という声も上がる。

    ただ、菅政権が少子化対策の筆頭に不妊治療を掲げたことは、そのこと自体に大きな意味がある。これまでの少子化対策は、子どものいない人々に疎外感を感じさせ、反発を買っては足踏みする、という悪循環に陥っていた。

    不妊治療への支援は子どものいない人も対象にした政策であり、不公平感が解消され、少子化対策のイメージが大きく変わる可能性がある。

    また、菅政権が、保険適用が実現するまでのつなぎとして、助成金制度の拡充を決めた点も評価できる。

    結果的に多くの共働きカップルを助成の対象から閉め出してきた730万円の所得制限を撤廃し、助成額や回数の上限も引き上げた。この新制度は、今年1月から実施されている。

    縮むマーケット

    不妊治療の現場は、もう一つ大きな問題を抱えている。

    日本産科婦人科学会によると、1992年から右肩上がりを続けてきた体外受精・顕微授精の治療件数は、17年でぴたりと頭打ちになっている(図2)。

    全国の不妊治療施設を顧客に持つ、ある経営コンサルタントは、「体外受精の世界は17年から、明らかに季節が変わった」と言う。

    体外受精件数の増加を支えてきたのは第2次ベビーブーム世代(71〜74年生まれ)の女性たちだ。

    国や自治体の助成金制度の多くは、治療開始年齢を43歳未満に限定している。

    長く治療を続けてきた女性も42歳前後になると、治療をやめる決断をするケースが多くなる。件数が頭打ちになった17年は、第2次ベビーブーム世代が不妊治療の現場から去っていった時期に当たる。

    筆者が体外受精について取材し始めた2000年代中ごろと今とでは、子どもを産むことに対する考え方も、大きく変化している。

    「産まない」選択をする女性も増えてきた。

    体外受精の規模について、前述のコンサルタントは少なく見積もっても年間1000億円と推計するが、生殖可能な年齢の女性が減る中で、そのマーケットは急速にしぼんでいく可能性がある。

    不妊治療の医師たちが、ビジネスの「次なる市場」として注目しているのはアジアだ。

    じわじわと高齢出産の時代に入りつつあるアジアの国々では、日本の高い不妊治療技術が求められており、医師たちは国の保健関連省庁から招かれたり、病院と技術提携を結んだりしているという。

    ベンチャーへの期待

    今後、日本の不妊治療はどうなっていくのか。

    重要なのは「不妊は社会が生み出し、社会が解決するものでもある」との認識が広がることだ。

    医療施設の他にも、多様なプレーヤーが登場している。企業に対して不妊治療への理解を求める国や自治体の動きを受け、患者個人ではなく企業を相手に事業を始める会社も現れた。

    加齢による卵子の高齢化で、妊娠・出産が難しくなる(Bloomberg)
    加齢による卵子の高齢化で、妊娠・出産が難しくなる(Bloomberg)

    今年2月、女性が若いうちに卵子を凍結する「選択的卵子凍結保存」のサービスを手がけるベンチャー企業のグレイスグループ(東京都港区)が、企業や官公庁の福利厚生業務の代行サービスを担うベネフィット・ワン(東京都千代田区)と提携した。

    卵子凍結は、若いうちに卵子を採卵し、受精させずにそのまま凍結保存する方法だ。

    米国では、グーグルなどのIT大手を中心に福利厚生のメニューに取り入れる事例が増えている。グレイスグループのサービスには、加齢の不妊への影響を啓蒙(けいもう)する目的もあるという。

    女性の健康課題をテクノロジーで解決する「フェムテック」では、不妊治療の分野にスタートアップ企業が続々と参入している。

    ユニークなのは、バリノス(東京都江東区)が独自に開発した「子宮内フローラ検査」だ。

    腸内フローラ(細菌叢(そう))の重要性は既に広く知られているが、子宮にも細菌叢が存在し、善玉菌もあれば悪玉菌もあることが、15年に米国での研究によって明らかになった。

    翌16年には、子宮内フローラのバランスが体外受精の成功率を左右するという論文も発表された。

    バリノスは、米国でゲノム解析事業に従事していた桜庭喜行CEOが17年に創業。子宮内細菌のDNA解読検査システムを開発し、国内140のクリニックや大学病院と提携して子宮内フローラと妊娠の関係性に関するエビデンスを蓄積している。

    琉球大学の調査では、子宮内細菌の9割以上が善玉菌であった人はそうでなかった人に比べて体外受精の妊娠率が2倍以上高かった。

    善玉菌はサプリメントを飲むことで増やせるといい、妊娠率アップへの効果が期待される。

    日本は「仕事と子育てを両立しやすい社会」からはほど遠く、晩婚化・非婚化も進む。そうした状況が、「不妊治療大国」を作り出したという側面がある。

    ただ、不妊治療も既に限界が見え始めている。

    保険適用の拡大は大事だが、むしろこれまでとは異なる発想で、妊娠を望む女性たちを支援する仕組みが必要だろう。

    (河合蘭・出産ジャーナリスト)

    (本誌初出 不妊治療 菅政権の少子化対策 前途多難の不妊治療保険適用 施設ごとに成功率にもばらつき=河合蘭 20210302)

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