週刊エコノミスト Online

新・炉辺の風おと/2 梨木香歩

「サンデー毎日5月9・16日合併号」表紙
「サンデー毎日5月9・16日合併号」表紙

鉄人の日々/2

 桜の花が終わるとリンゴの花が咲き始め、続々と次の実りに向かう。季節はいつも淡々と、先へ先へと進んでいく。

 心毒性という言葉を、この病になって知った。初めて聞いたとき、一瞬真っ赤なリンゴが浮かんだ。心――heart――ハートの形――リンゴと繫(つな)がる勢いが、毒という言葉を後押しして白雪姫の毒リンゴを浮かび上がらせたのだ。しかし、心毒性というのは、毒リンゴとは(むろん)何の関係もなく、心臓に害を及ぼす可能性のことをいっていたのだった。

 心臓が痛むということがよくわからなかった。何か身につまされることを見聞きして、胸が痛い、というのはよく使われる喩(たと)えだし、私自身も実際胸の痛む思いは幾度も経験してきた。しかし、それは胸のあたりが締め付けられる感覚であった。心臓そのものが痛むとは、どういうことだろう、と、副作用の説明書きを読んで漠然と思った。

 その謎はやがて判明した。それは長く、しくしくとチクチクと痛むのだった。多勢の小人が針のような槍(やり)を持って丹念に刺してくるような。かと思えば心臓そのものが急に、両の手のなかに閉じ込めた勢いの良い小鳥のように動悸(どうき)を打ち始める。胸の中から飛び出してくるのではないかと思うほどの制御できない動きに、ただなすすべもなく見守るしかない。呼吸も細切れ。一体何が起こっているのか。心臓の音が銅鑼(どら)の音のように煩(うるさ)くて寝つけない夜は、けれど、この一音一音が、懸命に生命維持に努めてくれている証(あかし)なのだと思い、それが生まれてこの方ずっと続いている営みなのだと思えばなおのこと、ありうべからざる奇跡に思えて、これだけ頑張ってくれているのだから、もう止まっても文句はいうまい、という寛容な気分になってくる。この「寛容」や前回言及した「おおらかさ」は曲者(くせもの)でもある。病と付き合うのに飽き、疲れ、もう戦線を抜け出したい気分もたぶんに関係しているのだ。けれど、それが嵩(こう)じると、ある種の「境地」へ到達する手助けにもなっているのだろう。穏やかで、すべてを受け入れる境地。これが当事者を真に幸福にする道なら、それに至るための「闘い」なら、何が勝利で何が敗北なのか。何が健康で何が不健康なのか。病に打ち勝つ、とは、病とともに生きる、とは、本当はどういうことなのか。形骸化した言葉が先行してわかった気になる世界を脱出し、血肉を通して濾過(ろか)された一滴のような言葉を追いかけたい。そのために、今までがあったのだから。

 闘病という言葉が、今までしっくりと来なかった。次から次へと内側から湧いてくる副作用という攻撃に、抗(あらが)うこともできずにただ受け身でいるだけなのに、「闘」う、とは。けれど、受け身でいることもまた、「ずっと劣勢に立っている」という闘いの姿なのだと今では思う。劣勢に立ちながら、持ち堪(こた)えているということこそ、ほんとうの力を必要とすることではないか。勢いに乗って簡単に勝利を手にするより。したいけれど。

「ずっと劣勢に立っていた」。一生を総括する言葉として胸を張って墓碑銘にしてもいいくらいだ、と思う。しないけれど。

 なしき・かほ 作家。八ヶ岳の自然に囲まれた山小屋での日々を綴ったエッセイ集『炉辺の風おと』が好評発売中。近著に『物語のものがたり』『草木鳥鳥文様』

 サンデー毎日4月18日号掲載

 毎日新聞日曜くらぶで2020年9月まで「炉辺の風おと」を連載していただいた作家の梨木香歩さんに、サンデー毎日では4月11日号から「新・炉辺の風おと」を執筆しています。4月27日発売の「サンデー毎日5月9・16日合併号」には「鉄人の日々5」を掲載しています。

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