LGBT法案提出を見送った日本が見習うべき台湾の「現実主義」とは=小佐野彈
「事実は小説より奇なり」というのは本当で、現実の世界で起こっている様々なできごとは、フィクションよりもはるかにややこしい。僕たちの暮らす社会や市場は複雑で、絶えず変化している。理想を持つことはとても大事だけれど、政治やビジネスにおいては、やはり「現実主義」が肝要だ。
僕が暮らす台湾は、複雑をきわめる国際政治の世界においてもかなり特異な地位にある。台湾を主権国家として承認している国は15カ国に過ぎないし、国連やWHOなどの機関からも締め出されている。台湾海峡を挟んだ中国との関係は、常に緊張をはらんでいる。しかし、そんな複雑な状況に70年以上置かれてきたせいか、台湾は国際政治における現実主義の旗手にして落とし所探りの達人だ。
全メディアの質問に答える感染症指揮センター
コロナウイルス禍における台湾の政治のあり方は、きわめて現実的かつ迅速だった。昨年初頭に世界的な感染拡大の兆候があらわれるとすぐに徹底した水際対策を行い、ウイルスの流入を防いだ。結果として市中感染は大幅に抑えられ、今年5月中旬までの1年半近くにわたって、台湾はコロナ以前とほとんど変わらない生活を送ることができていた。マスク購入パニックを防止するためのスマホアプリを数日で開発しローンチした30代のトランスジェンダー女性であるオードリー・タンIT担当大臣の活躍は、日本でもずいぶん取り上げられたので、皆さんご存じだろう。
政府の感染症指揮センターは毎日午後2時から長時間に渡って丁寧な記者会見を行い、陳時中指揮官兼衛生部長(厚労大臣に相当)はほとんど全てのメディアの質問に答え、どんなに些細なことであっても情報発信をするべく努めてきた。それによって政府と市民の間に信頼関係が醸成され、市民の側もまた、政府による強制力を伴う措置を(しぶしぶと、だが)受け入れた。
コンビニ入店時はショートメッセージで個人情報送信
5月中旬、国際線パイロットに端を発するクラスターが台湾北部において発生し、それまで市中感染のほとんどなかった台湾は、急激な感染拡大に見舞われた。本稿を書いているいまも、まさに感染爆発の渦中にある。
こうした非常事態においてこそ、政治の力が問われるものだ。台湾政府は感染状況に応じての防疫措置についてかなり明確な基準を定めており、今般の感染爆発以前から記者会見やFacebookなどのSNSにおいて市民に周知してきた。1日あたりの感染者数と、感染源不明者数の割合によって、4段階の防疫措置が定められており、1日あたり100人を超える感染者が出ているものの、感染源の特定できない陽性者が半数を切っている現在は、上から2番目のレベル3の措置が適用されている。
これは、外出時全行程におけるマスク着用と、コンビニエンスストアや屋台を含めたあらゆる店舗に入店するに当たっては実名と連絡先の登録が義務付けられる、なかなか厳しい措置だ。室内での集まりは、家庭内も含めて5人までに制限されている。
当初、コンビニやスーパーには、紙とペンが用意され、各自が手書きで名前と連絡先を記入していた。しかし共用の筆記具を通しての接触感染のリスクや時間がかかることによる行列が発生してしまった。また、個人情報保護上も問題があった。そこでオードリー・タン大臣は再び、わずか3日の間にシステムを開発し、すべての店舗にQRコードを割り当て、それをスマホでスキャンすると自動的に政府宛てにショートメッセージが送られるようにした。送られたデータは28日後に自動的に消去されるようになっており、個人情報漏洩の可能性も最小限に抑えた。
これによって混雑は解消されたし、接触感染のリスクは大幅に低減した。オードリー・タン氏は高等教育を受けておらず、30代で性的マイノリティだ。しかし現在の台湾政府は性別や門閥、あるいは出自に関わらず、徹底した実力主義でポストを割り当てている。結果、迅速かつ透明性の高い施策を打つことができている。
人口の1割を占めるLGBTのための法整備
台湾の「現実主義」は、一昨年のアジアにおける初めての同性婚合法化にも顕れた。現在、電通メディア・ラボの調査などによれば、日本におけるLGBT当事者は、人口比で約9%と言われている。台湾においても同様の調査が行われたことがある。保守的な地方を避けて進取的な都市を目指すLGBTの特性もあって、首都・台北におけるLGBT当事者は、人口265万人のうち約13%と言われている。
僕も含め、LGBT当事者は「マイノリティ」と呼ばれる。なるほど、人口の9%と言われると少数派な感じがするけれど、この「人口の9%」がほかのどのような属性と同じ水準か、皆さんはご存知であろうか? 日本においては、左利きの人は約9%だ。ABO式血液型判定におけるAB型の人も約9%。しかし、なにより意外なのは、全人口に占める20歳未満の人、すなわち「若者」の数が現在1100万人となっており、ちょうど人口の約9%に当たるのだ。つまり、僕たちLGBTは、「若者」とほぼ同じ割合で、この社会にいる、ということだ。
同じ儒教圏アジアである台湾も、概ね同じ水準だろう。
台湾は全人口の1割近くを占めるLGBT当事者のために、極めて現実的な方策を取った。それが同性婚の合法化であった。また、全人口の2%を占める、アミ族やタイヤル族に対してのアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)も、早い段階から実施している。なぜならば、僕たちLGBTも若者も、この社会と市場において1割を占める、決して無視できない存在だからだ。
儒教圏アジア特有のいわゆる「戸籍制度」が残存しているのは、いまや日本と台湾だけだが、台湾においては戸籍制度に基づく伝統的家族の形と同性婚は、見事に共存を果たしている。また、これは男尊女卑的な伝統の怪我の功名みたいなものだが、基本的に夫婦も別姓だ。
「伝統的家族」ではバイセクシュアルが当たり前だった
いっぽう、最近の我が国ではどうだろう。自民党では元来最右派と言われた稲田朋美元防衛相や馳浩元文科相を中心に、LGBT理解促進法案の上程に向けて作業が進められていた。「現実主義」に立脚すべき与党の責任として、野党とも折衝を重ね、妥協を経て、法案の骨子も固まったところであった。ところが党内のいわゆる「保守派」と呼ばれる人々の反対によって、今国会での提出は事実上白紙化されてしまった。
自民党の「保守派」の人たちの言い分は、同性婚や夫婦別姓は日本の「伝統的家族」のかたちを壊す、とのことである。しかし、日本においては江戸時代までの近世はおろか、近代に入った明治前半までも、夫婦は基本的に別姓が推奨されていた。井原西鶴の『好色一代男』や春画などをみれば、近世以前の日本においてはむしろバイセクシュアルが当たり前だったことも自明だ。信長や信玄、伊達政宗の小姓との間の男色関係は広く知られている。
日本において一夫一婦制と男女の夫婦同氏に基づく「家族」が当たり前になったのは、近代以降のことだ。いわゆる「保守派」の人々が主張する「伝統的家族」は、むしろ「近代的家族」だと言える。
現実主義は日本のお家芸
台湾は儒教的伝統と、現代の現実との折り合いをうまくつけている。国民身分証番号(日本のマイナンバー、アメリカの社会保障番号にあたる)を戸籍と紐付け、同性婚も戸籍制度も伝統的家族もすべて共存させているのだ。
日本は、古くは中国から仏教や漢字を取り入れ、それを改良して仮名文字や鎌倉仏教を生んだ。明治維新に当たっては、海外の文化や法律、はては料理にいたるまであらゆるものを広く取り入れ自らのものとしていった。目の前の現実に即してさまざまなものを取り入れてゆく「現実主義」と「伝統と革新の共存」は、日本のお家芸ではなかったか。
小佐野 彈(おさの だん)
1983年東京生まれ。慶応義塾大学経済学部卒、慶応義塾大学大学院経済学研究科修士課程修了。第63回現代歌人協会賞受賞。18年に歌集『メタリック』(短歌研究社)、19年に小説『車軸』(集英社)を刊行。最新作は中編小説「したたる落果」(「文學界」2021年1月号)。台湾を拠点にメルボルン、ロンドンなどで日本茶カフェチェーン「TSUJIRI辻利茶舗」を経営する。台湾台北市在住。