経済・企業

「謝ったら死ぬ病」がまん延する中、急逝したキリン布施孝之前社長が、社員の前で謝った理由

    キリンビール代表取締役社長布施孝之
    キリンビール代表取締役社長布施孝之

    キリンビール社長だった布施孝之氏が9月1日、急逝した。享年61歳。業績が最悪の2015年に社長に就任。商戦で負け続けていたキリンを、昨年11年ぶりにシェア首位に復活させた。布施氏は、長期低迷の名門企業のどこを、どう変えたのか。 

    「最悪期をチャンス」に変え11年ぶりにアサヒからシェア奪還

    「負け戦が続き、社内は他責であふれていました」、「右肩下がりの悪い流れを、どうすれば変えられるのか」、「小手先は通用しない。大きなエネルギーを要しましたが、逆に最悪期は変えられるチャンスでしたよ」

     昨年7月8日、週刊エコノミスト誌の単独インタビューに対し、時折はにかむような笑顔を見せた。目を細めてニコッと笑うのは、布施氏のトレードマークだった。

     2020年上半期(1月~6月)、キリンは11年ぶりにアサヒを抜いて販売シェア首位を奪還した、と推測された。なぜ推測かといえば、アサヒビールが「過度なシェア競争をさけるため」と、販売数量の発表を20年からやめてしまったためだった。そこで、独自に販売量を集計した上で、社長の布施氏に取材したのだが、冒頭はそのときのやりとりである。

     (関連記事は以下の2本:キリンが首位奪還、11年ぶりにアサヒ抜く ビール類シェア「本社の言うことは聞かなくていい。責任は私が取る」11年ぶり悲願の首位奪還を果たしたキリンビール 布施孝之社長が見せたリーダーシップ

     何事にも、正面から真摯に答える経営者だった。取材の途中で、筆者が「来年の今頃は、別の立場(キリンホールディングス社長)になっているのでは」と唐突に直球を投げ込んだ。すると、「いやいや、現場にいないと、私は死んでしまいます」と打ち返したが、いつも以上にはにかんだ笑顔に、現場一筋に生きた実直な人柄が滲んでいた。

     コロナ禍の20年は通年でも11年ぶりに、首位に返り咲く。さらに、21年上半期も、シェア差を広げてトップを継続させていた。

    東女バレーボール部の監督で学んだ「平等」の威力

     布施氏は1960年2月、千葉市に生まれる。父親はサラリーマンだったが、祖父は稲毛海岸で海水浴客を相手にする休憩所を営んでいた。

     千葉東高校から早稲田大学商学部に進む。早大ではバレーボールの同好会に所属したが、2年秋から卒業まで東京女子大体育会バレーボール部の監督を兼務で引き受ける。監督に就いたとき、関東の女子リーグが13部あるなかで、東女は8部から7部に昇格したばかり。7部に6校あるなかでは、実力は一番下だった。無理もない。約20人の部員は、全員が難関な入試に合格した選手ばかり。体育入学者などはいなかった。

    「ウチのチームの強みは何だと思う?」。布施監督は一人ひとりの部員に聞いて回る。レギュラーだけではなく、スタンドで応援する控えを含めて全員にだった。決して分け隔てをせずに、平等に時間を割いて、話し合った。

    「チーム全体のモチベーションを上げるためには、平等であることが大切。その上で、全部員の意思統一を徹底させる。監督は戦略を明確に示し、決してブレてはいけない」

     布施氏が卒業の頃には、東女は4部にまで昇格していた。「2年半の監督経験は、リーダーそして経営者としての学びになりました」

    キリンビールの布施孝之社長は営業畑を歩み、いつも現場を大切にした
    キリンビールの布施孝之社長は営業畑を歩み、いつも現場を大切にした

    “殿様営業”の経験はなし

     キリンには82年に入社。神戸支店に配属される。当時のキリンは6割を超えるシェアを持ち、さらにシェアアップすると独禁法から会社が分割される恐れがあった。このため、営業の仕事は、売り込みではなく調整だった。「今月はこの数量のビールを割り当てます」と通達するキリンの営業マンを、卸はコーヒーを出してもてなしていた。

     しかし、布施氏がこうした”殿様営業”を経験することはなかった。商品力の弱い、小岩井の乳製品やキリンレモンなどの食品を担当したから。スーパーのバイヤーに売り込む一方、売り場の店頭に立ち試食販売にも従事した。なお、同じ神戸支店には、5期上に現在のキリンホールディングス(HD)社長の磯崎功典氏もいた。磯崎氏も食品営業だった。

    「客前で土下座は茶飯事」

    布施氏が会社の本流であるビール営業になったのは、八王子支店に異動した89年秋だった。しかし、アサヒビールが87年3月に発売した「スーパードライ」が大ヒットしていて、キリンは劣勢に立たされていた。

    「なので、楽な営業は一度も経験がありません」

    90年にキリンが発売した「一番搾り」は、スーパードライの勢いを一度は止める。しかし、アサヒに誕生したプロパー社長が実権を握った94年から、アサヒは再び攻勢に転じていく。

    商戦は激化の一途をたどり、新宿を担当する支店で課長に、その後も大手飲食店を攻略する部隊を率いる部長になり、営業最前線で戦う。部下との営業同行、難しい回収作業、そして飲食店の他社からキリンへの切り返し営業。「夜討ち朝駆けの毎日で、客前での土下座は茶飯事でした」。

    だが2001年、キリンはアサヒにシェアを逆転されてしまう。2位転落は48年ぶりだった。当時のキリン社長は「負けを素直に認め、これからはアサヒでなくお客様を見よう」という内容の宣言を、発した。「俺たちはまだやれる。東京では負けていない!」と布施氏は宣言を否定的に捉える。敗北を認めるなど、必死に戦う部下たちが不憫でなかなかった。

    「本社のいうことは一切聞かなくていい」

    大阪支社長に就いたのは08年3月。大阪は大票田であり、アサヒの牙城だ。まず、50人のメンバー一人ひとりと面談して布施氏は問うた。「キリンの強みは、何だと思う?」、と。だが、返ってきたのは「会社の方針が間違っている」「やらされ感が強い」など、不満ばかりだった。

    しかし、08年は思うような成果を上げられなかった。そこで年末、布施氏は全員の前で話した。「結果が出せなかったのは、私が誤った方向をみんなに示したからだ。申し訳ない。ただし来年、大阪支社は全国トップをとる。そのため、本社のいうことは一切聞かなくていい。本社から下りてくるキャンペーン活動など、無視してかまわない。すべての責任は私が取るから」。支社長は腹を括り、現場を本社の呪縛から解放させたのだ。

    その上でテーマを与えた。「来年3月にリニューアルされる一番搾りの魅力を、料飲店や業務用酒販店に伝えることを、最大のミッションとする。方法は君たちに任せる」、と。

    09年、大阪支社は大きく躍進。これが原動力となってキリンは9年ぶりにアサヒを抜いてシェアトップに返り咲く。

    成果を上げたためか、「経営を勉強してきなさい」とかなり上の上司から小岩井乳業社長への辞令を受ける。「役員にもなっていない自分が、なぜ」。内心驚いたが、異例の人事の裏には深い事情があった。

    転機となった小岩井乳業のリストラ

    10年3月に就任してみると、小岩井の経営は行き詰まり、リストラを断行しようとしていたのだ。「聞いてない…」。何も知らない社長を送ることで、小岩井社員の反発をかわし、人員削減を円滑に進めようとする狙いが、どうやら”上”にはあった。

    5月に入ってのリストラ説明会の席上、社員は訴えた。「悪いのはキリンだ。戦略をコロコロ変えるから、小岩井は振り回されて、経営が悪化した」

     説明に聞き入る社員たちの目は、一様に怒りに溢れていた。大阪支社長時代、部下から受けた不満の爆発とは、そもそも次元が違う深刻さがあった。

    「一番搾り 糖質ゼロ」の発表会(2020年8月27日)左が布施社長
    「一番搾り 糖質ゼロ」の発表会(2020年8月27日)左が布施社長

    「リストラは子供たちの進路すら変えてしまう」

    リストラ対象は全部門に及んだ。年末までに断行しなければ、経営再建はできない上、キリングループの経営にも影響を与える。リストラされるのは本当に辛い。だが、執行する方も精神的にきつい。対象者の背景には家族がいる。受験を控えた子供たちは、進路を変えざるを得なくなるかもしれない。

     リストラを終えた後、布施氏は対象者一人ひとりに手紙を書く。「赴任したばかりで対象者を知らない。でも、人として思いを伝えたい」。人事部からデータをもらい、社内でエピソードを取材して、手紙に盛り込む。使った便せんは200枚に及んだ。11年が明けると、何通かの返事が届く。そのうちの一つに、次のようにあった。

    「自分がリストラされるとは夢想だにしなかった。しかし、そのときの社長があなたでよかった。手紙に感動しました」

    12年、布施氏は「生乳100%ヨーグルト」を”強み”となる基幹商品に据え、売り上げを伸ばして小岩井を再建させていく。

    アサヒとのシェア差過去最大で社長に

    この手腕が評価されたせいか14年3月、キリンの営業会社だったキリンビールマーケティング(当時・17年にキリンビールに統合)の社長に就任。兼務のままキリンビール社長に就いたのは15年1月。3月就任が通例だったが、凋落に歯止めが掛からないための緊急登板となる。

    何しろ14年の首位アサヒとのシェア差は、過去最大の5.0%(出荷ベース)に広がっていたのだ。前述の通り、09年には9年ぶりにトップに立ったのに10年には再逆転を許す。20年7月の取材で布施氏は、この点を次のように語っていた。

    「本社の指示がブレたためです。リニューアルした一番搾りが好調なのに、同じビールの『ラガー』も強化せよと、無茶な指示があった」「もう一つは、目標としたシェア1位奪還が、いつしか目的になってしまった。達成すると、力は消えていきました」

    10年以降、シェアダウンが続き特に12年からの落ち込み幅は大きかった。

    「キリンには戦略がない」

    社長に就任すると、全国の支社支店、工場現場をつぶさにまわる。「このままでは、赤字転落もあり得る」と現実を訴え続け、社員の意識を変えようと奔走する。

    外部からではなくプロパー社長が、連敗続きの、しかも、「自分は悪くない。悪いのはあの部署だ」と言い張る人であふれた会社を、もう一度上昇気流に乗せるのは至難の業だ。しがらみも多く、大胆な決断ができにくくなるから。

     社長として社内改革を表明したのは18年から。「お客さまのことを一番に考える組織風土を目指す」というシンプルなメッセージを社内に向けて発信した。ただし17年後半から各部署から人を集めて、「浮上のためのスイッチは何か」「自分たちの強みは何なのか」を、徹底して議論した。

     この結果、分かったのは「キリンには戦略がない、ということでした」。小岩井と同様に、短期的な成果を追うあまりコロコロと戦略が変わり、現場は振り回された。

    投資する商品ブランドの選択と集中を実行しながら、イオンなどから第3のビールのプライベートブランド(PB)受諾生産を拡大させた。また、外部からマーケティング部長(山形光晴・常務執行役員)を招請して、第3のビール「本麒麟」をヒットさせる。

    これにより、布施氏は就任6年目の20年に、シェア首位を奪還したのだ。

    インタビューに応じる布施孝之・キリンビール社長=東京都中野区のキリンビール本社で2020年7月8日、柳沢亮撮影
    インタビューに応じる布施孝之・キリンビール社長=東京都中野区のキリンビール本社で2020年7月8日、柳沢亮撮影

    原因は「コロコロ変わる戦略」

    戦略面では、ビールの一番搾りを強化し続けた点は最大の功績だ。スーパードライに対抗するビールとして、一番搾りは90年3月に商品化され大ヒットする。以来、キリンは主力だったラガーと一番搾りのどちらを、中心とするべきかずっと揺れ続けてきからだ。

    この揺れこそが、”コロコロ変わる戦略”の原因であり、これを止めた。

    最初に「一番搾り・中心」の旗を揚げたのは、12年にキリンビール社長に就いた磯崎氏だった。これを引き継ぎ実行に移したのが布施氏だったといえよう。

    ビール類(ビール、発泡酒、第3のビール)の酒税改正は昨年10月に始まり、23年10月を経て26年10月には税額が一本化される。減税されていくビールに強くなければ、もう生き残れない。

    本社は外界と将来を見て、現場は内側といまを見る。布施氏は本社と現場とをつなげた経営者だった。だから、名門企業の復活を成し遂げられたのだ。「部門を超えて社員が互いを気遣い合える風土に、やっとなりました」。昨年7月8日、嬉しそうにこう話していたのが、やけに思い出される。

    「逃げない営業マン」の父が葬儀で詫びた一言

    中野区のキリン本社18階のフロア中央には、ガラス張りの社長室があり布施氏は常にドアを開けていた。「偉くなっても、気さくな人柄で、誰でも受け入れる優しさがあった」「卸とトラブルになったとき、布施さんに助けてもらった。どんな困難にも決して逃げない、本当の営業マンだった」などと、惜しむ声は後を絶たない。

    9月6日、コロナ禍のため葬儀は小さく執り行われた。キリンからは磯崎氏だけが参列した。すると、布施氏の年老いた父親は、布施氏の結婚式で一度だけ面識のあった磯崎氏に向かい、言った。

    「こんな大事な時期に、途中で仕事を擲(なげう)ってしまい本当に申し訳ありません。だけど磯崎さん、孝之をどうか赦してやってください…」

    サラリーマンだった父は、気丈にこう詫びた。亡き息子に代わり、そして天国の息子を思い。布施氏は、こんな父に育てられた経営者だった。

    キリンビール社長は当面、キリンHD社長の磯崎氏が兼任する。「早く、次の社長を決めます」と磯崎氏は話す。    合掌

     (永井隆・ジャーナリスト)

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