園子温監督に捧げる清志郎の「歌」 映画界の性暴力問題を考える・水道橋博士の藝人余録/4〈サンデー毎日〉

園作品「激推し」の町山智浩とボクの見解
映画界、芸能界を揺るがせつつある、性暴力の広がりと告発の潮流。独自の作品世界で注目される園子温監督も、性加害の過去が明るみに出た。園監督の映画を熱く支持してきた水道橋博士は、この問題をどう受け止めているのか。監督とその作品への思慕を抱きながら、事態の本質への分析を試みる。
2017年にハリウッドの大物プロデューサー、ハーベイ・ワインスタイン氏(禁錮23年、現在収監中)が30年以上にわたり、映画界を夢見る女性を食い物にし、業界でステップアップを目指す女優らに対してプロデューサーという地位を利用して数々のセクハラ行為や性暴力を行っていたことが告発されると、SNSを通じて瞬く間に糾弾・連帯運動が世界に広がって行きました。
地位を射止めたい者と、その地位への人事権を握る者との〝コミュニケーション〟は、どこまでがギブアンドテイクで、どこからがセクハラなのか? この線引きは長年放置され見て見ぬふりをされてきました。
当初、SNS特有の過熱一方の抗議運動に、フランスの大物女優、ブリジット・バルドーやカトリーヌ・ドヌーブらが魔女狩り的手法に懸念を示し、役を得たいがための女性側からの過激なアプローチにも問題があると指摘しましたが、結局は多勢に無勢、謝罪に追い込まれました。あれから5年――。
2022年の日本でも今まさにその延焼が始まりました。
俳優・木下ほうか氏のおぞましい下心に名前を利用された井筒和幸監督の「日本映画の業界全体が色眼鏡で見られてしまうことが問題。監督はみんなこんなことしてるんちゃうか、と思われるのは心外だ」という言葉も象徴的に報道されました。
この問題の厄介なところは、数珠つなぎに色んな人の名前が出てくることで、罪なき多くの人々をも臆測だけで巻き込む可能性があるところです。
この案件を遡(さかのぼ)り、昭和芸能界の性というパンドラの箱を開けたら、それはもうキリがありません。まだまだ、この後も、積年の恨みを告発する女性は増えることは必至、週刊誌もこれほどのメシの種はないでしょう。
園子温問題にリベラル系は沈黙
では、週刊誌は今後どこまで、女性たち(男性をも含め)の告発を古今東西、大小かまわず掲載するのでしょうか?
そこで提案です。個人的にはヤタラメッタラの芸能界・邦画界の告発連鎖を峻別(しゅんべつ)し、現在進行形の人物・事件の至極悪質なケースにのみフォーカスさせるためにも、平成29年に法改正された「強制性交等罪」の時効を一つの基準としてはどうかとも考えます。
しかし旧強姦(ごうかん)罪から改正された同罪の時効は、相変わらず10年のままでありかなり短いです。
一方で、民事の損害賠償請求権が20年の時効であるところを考えると、この過去20年という区切りが週刊誌的告発の消費期限、一つのラインだとは思います。
もちろん、この提案にも賛否両論はあろうと存じます。
昔は言い出せなかったけど、今なら社会的な理解もサポート体制も進み、今なら言える女性(男性)もいるでしょうし、そういった声を掬(すく)い取るには20年ではあまりに短すぎるでしょう。
法律がなんだろうと時効がなんだろうと被害者の精神的な屈辱、トラウマは一生つきまとうものですし、本当に悩ましいです。
さて、今回、榊英雄~木下ほうか~園子温~梅川治男……と続いている日本版ワインスタイン事件において、多くの女性や若者層が事件の悪質性とは別の角度で憤ったのがメディアやSNS運動のダブルスタンダードな態度でした。
すなわち山口某案件のように〝政権絡み〟と思われた場合は、夜も日も明けないような大騒動であったのが、今回の告発では、なんとダンマリを決め込む出版社、放送媒体、#MeToo系アカウントの多いこと。
代わりにくだんのアカウントがここ数日、標的にして大騒ぎしていたのは、邦画界のリアルな性被害よりも、某経済新聞に載った〝二次元〟の巨乳女子高生の漫画広告だったというオチまで付きました。
園子温問題は基本、テレビでは沈黙です。園監督の作品で主演を果たしてきた女優たちは今やテレビでも売れっ子の実力派揃(ぞろ)い。報じたくても報じられないのか、はたまた別の理由があるのか……。
こういった傾向は、フォトジャーナリスト・広河隆一氏が、『週刊文春』によってそのおぞましい、性暴力、性行為要求、ヌード撮影といった行為が暴かれたときにも、#MeToo系アカウントが一斉に沈黙するという形で表れました。
今回の園子温問題でも、元TBS記者問題の時とは打って変わって左翼系のアカウントは沈黙状態。政治思想的に〝仲間〟〝味方〟と認定された人物には甘く、〝敵〟と認定された人物は徹底的に叩(たた)く傾向は続くでしょう。
園子温問題は、日本特有のSNS構造、デジタル言論の問題点をあぶり出す格好のモデルケースともなりました。
そいうった意味では右も左も与党も野党も常に恐れる〝紙爆弾〟『週刊文春』は、広河、榊、梅川、園と、誰であろうと正義の雷を落とすのですから本当に凄(すさ)まじいところです。
そしてもう一つ、若者や多くの映画マニアが憤然としているのが、近年、薬物、強姦、パワハラと、これだけの問題が邦画界にありながら、崔洋一監督の日本映画監督協会の理事長職が18年間という〝御法度レベル〟の長期独裁政権になっている点です(歴代最長だった、五所平之助、大島渚監督の在任期間16年をすでに超えました)。そして同協会は、昭和11(1936)年の創設以来一度として女性が理事長になったことがないことも併せて指摘しておきます。
さらに懸念されるのが、長年、邦画界とその批評空間は、作品の絶対的評価よりもまず、この監督は、この役者は、自分たちの村が希求する思想信条、政治信条に沿っているか? という人定審査を批評の第一関門にし過ぎてはこなかったか? そこに重きを置き過ぎはしなかったか? という疑念を生じさせてしまった点です。そういった下地が、同じ信条をもつ業界人であれば、性的問題を起こしても長年お咎(とが)めなしという異常空間の形成に至ったのでは? と邪推されても反論できないのではないでしょうか。
今回、榊英雄問題を受けて、是枝裕和監督ら6人の有志が「私たちは映画監督の立場を利用したあらゆる暴力に反対します」と、非難の声を上げました。
しかしこれはインフォーマルであり、協会としてオフィシャルな対応は原稿執筆時点ではまったくありません。
せめて、2017年のワインスタイン事件を他山の石として、日本映画監督協会でも対応を強化するなどの対策をもっと取ってきていれば、このような恥ずかしい事件の連鎖を少しは防げたと思います。
性暴力があった映像作品の「罪」とは
さて、この園子温問題について、ボクだけ、洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込むつもりはありません。
ネット上に散々、園監督とボクや映画評論家の町山智浩氏が一緒に笑顔でおさまった写真が拡散されていることでもありますし、隠すつもりも一切ありません。なにせボクは、園監督の監督作品、自叙伝に惚(ほ)れ込み、共に「芸人宣言」と題する舞台を立ち上げ、相棒として漫才をしたこともある仲です。
そして彼が、幾人かの女優さんとどういう仲であったかも、薄々知らぬでもありませんでした(が、それは性暴力ではなく、監督が独身時代の恋愛であるとの認識でした。また昨年のボクのYouTube番組収録では、現場に私生活でパートナーである女優とワークショップの若手女優が一緒にご夫婦の幼子をつれて来ていたのも、すっかり安心材料でもありました)。
この報道があっても、彼の作品に対する評価は変わらない部分もあります。そこは大きなジレンマです。
園子温問題で、ボクは論点を絞り込みました。
すなわち、演劇界、テレビ業界、邦画界(のみならず採用という人事権が発生するすべてのシチュエーション、一般の就職活動のOB訪問、社員訪問のレベルも含めて)における、性的ギブアンドテイクの防止策と、例えば過去の検証をする場合は提案として20年を一つのラインにしてみること。
そしてもうひとつは、過去のキャスティング時、性的な交渉があったとおぼしき映像作品、舞台作品について、その作品に罪はありやなしや。この2点です。
ボクだけ逃げるつもりはないと書きました。
なにせ、今どきの若者たちが一番、「クソダセェ」と見下し、毛嫌うのは、身内に甘く他人に厳しい野党無罪系、学生運動行き遅れ世代系、アラウンド還暦・SNSウルサ型論客ジジィたちのダブルスタンダードなツイート、身勝手な思考です。
そんな世代の中でも、爆笑問題の太田光くんは、今回、園監督に、自身のラジオで毅然(きぜん)と物申して、若者たちから絶賛されていました。「だから、言ったんだ。お前の映画は実験映画だって。全部は女優さんのおかげなんだって。だから女優さんを大事にしろと。映画はお前の一番大事なものじゃなかったのか? それを下心の道具に使って。アイツ自身が一番『クソ野郎』だったんだ!」
ボクは彼の以前からの園子温作品評価を知っているので、この発言に違和感は感じませんし、オチの付け方も洒落(しゃれ)倒しています。
こんな経緯をも含めて、ボクは、園子温監督をラジオや『映画秘宝』誌で「激推し」していた過去を持つ、渦中の映画評論家・町山智浩氏と対談することにしました。
還暦過ぎた園子温監督が、この先、残りの人生で「ワークショップ」から「ハローワーク」通いに転身することになるのか否か、町山さんとじっくり語り合いました(ちなみに3人共にほぼ同じ年です)。
すべてを懺悔して謝罪すべきこと
まず、今、告発されているようなことが一つでも真実であれば、断罪されなければならないことを大前提に対談は行われています。
町山さんは「何故、映画現場の人は誰も発言しないままで、ボクのような映画評論家が糾弾されるのかわからない」趣旨のことを言われます。ボクもまた個人的な映画や著作への熱狂と、彼が起こしたとされる性的加害被害に何故、ボクが因果関係があると言われているのかの戸惑いも隠せません。
町山さんは園子温映画のバイオグラフィーを解説しながら、映画に映る監督の自意識の変遷を追いました。園子温監督のほぼ全作品を網羅して見ているボクには、かなりの密度と深度で町山さんの話が刺さります。
最後に町山さんは、園子温監督作品の『ヒミズ』(2012)のラストシーンをあげて、殺人を犯した染谷将太に寄り添う二階堂ふみが「罪の全てを告白して、自首すべき!」だと説き伏せながら堤防を走り抜ける際に「頑張れ!」と叫び続けるシーンを引用して、監督本人が今こそすべてを懺悔(ざんげ)して謝罪すべきことを説きました。
映画評論家らしい贖罪(しょくざい)の提案だとボクは思い、脳内にあの名作のスクリーンが広がっていました。その映像は、YouTube版「博士の異常な対談」で見届けていただきたいと思います。
余話ですが、園子温監督が描いた『自殺サークル』(2002)のなかで使われるキーワードに「貴方は貴方の関係者ですか?」という言葉があります。ネットのなかでは、見ず知らずの有名人の不祥事に対し、自分は無関係であることから、犯人に断罪を求めることに血道をあげて気晴らしをする人たちの傾向がとみに高まっていることはよく知られています。
ボクは犯罪事件が起きれば、クセのように事件への自らの関係性を考えずにはいられません。社会を構成する一員として犯罪そのものに自分が何らかの形で幇助(ほうじょ)をしていた可能性はないのか? そして犯行と自分の意識の距離感も考えます。さらに自分の胸に手を当てて聞きます。「貴方は貴方の関係者ですか?」――。
そして、今回は園子温監督の「関係者そのもの」であった自分を振り返ります。そのたびに、かつて忌野(いまわの)清志郎が歌った「君が僕を知ってる」の歌詞が心のなかに流れます。
今までして来た悪いことだけで/僕が明日有名になっても/どうってことないぜ/まるで気にしない/君が僕を知ってる/中略/離れ離れになんかなれないさ
被害者のことをいちばんに想(おも)いつつも、十字架の下で自らの罪を償うべきである園子温監督の傍(かたわら)で、ボクは世界中にただひとりだけでもこの歌を奏でてあげたいと思っています。
すいどうばしはかせ
1962年、岡山県生まれ。お笑い芸人。玉袋筋太郎とのコンビで「浅草キッド」を結成。独自の批評精神を発揮したエッセーなどでも注目され、著書に『藝人春秋』1?3、『水道橋博士の異常な愛情』ほか多数ある
