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100年前の関東大震災 皇室「災害お見舞い」の原点 社会学的皇室ウォッチング!/84 成城大教授・森暢平
関東大震災が発生したのは今から100年前、1923(大正12)年9月1日午前11時58分である。死者・行方不明者は10万5000人を上回る。皇室では山階宮佐紀子(20)、閑院宮寛子(17)、東久邇宮師正(もろまさ)(5)の3人が建物倒壊で亡くなった。佐紀子女王は新婚かつ懐妊中で、皇室にも大きな被害を与えた。
震災時、大正天皇は事実上引退し、貞明皇后とともに日光・田母沢御用邸にいた。摂政となっていた裕仁親王(のちの昭和天皇、摂政宮と表記)は居住していた赤坂離宮を出て、宮城(きゅうじょう)(皇居)で執務に当たっていた。実は9月1日には首相は不在であった。首相であった加藤友三郎は8月24日、大腸がんのため逝去。元老西園寺公望は、海軍、薩摩閥の長老山本権兵衛を首相とすることを決断し、同28日、摂政宮から山本に対して大命降下があった。山本は組閣の準備を進めていたが、9月1日の段階でそれはならず、前内閣の内田康哉(こうさい)が臨時兼任首相を務めていた。首相不在のまま未曽有の災害に見舞われたのである。内務省、警視庁庁舎の焼失もあり、政府の初動対応は遅れた。
地震のあと、摂政宮は宮殿中庭に避難、ここで内田からご機嫌伺いを受けた。さらに宮城内の観瀑亭(かんばくてい)に避難。午後4時になって赤坂離宮に戻り、「広芝御茶屋」を仮の住まいとした。広芝御茶屋の電気が復旧したのは9月5日で、それまで摂政宮もろうそくの光の下で過ごした。この間、山本が組閣を進め、同2日午後8時ごろ、山本内閣の親任式が行われた。農商務相として入閣した田健治郎はのちに「歴史的に記録すべきところの凄壮な、電灯とてなく蝋燭(ろうそく)の光ほの昏(くら)き下で親任式は行われた」と回想する(『正伝・後藤新平 決定版』)。
現憲法下でも、首班指名はまず国会両院での選挙があり、宮殿で天皇が官記(任命書)を渡す親任式を経て、正式に首相が誕生する。今、国会で首相指名後、親任式までの間に大災害があったらどうなるか。思考実験をしておくことは、危機管理の上でも重要であろうが、そのことは措(お)く。
宮内省の炊き出し
地震当日午後6時ごろ、火の手は竹橋、大手町を襲い、大手門や平川門には大勢の被災者が殺到してきた。「避難者ハ潮ノ如ク平川門前ノ橋上中央マテ殺到シ、加フルニ火粉ハ一層猛襲スル」事態となったのである(宮内庁宮内公文書館所蔵「震災録4」)。皇宮警察部は平川門を開け、宮城一部を被災者に開放する判断を下した。この日、宮城前広場に集まった被災者は約2万5000人。宮城前広場には最終的に約30万人の被災者が避難し、東京で2番目に大きい避難場所となった(最大は約50万人が集まった上野公園)。
宮内省は9月3日、新宿御苑、白金御料地などに被災者を受け入れることを決めた。バラック小屋(今でいう仮設住宅)建設のためである。こうした措置は新聞発表され、東京市民に宣伝された。宮内省は自省職員だけでなく、被災者にも炊き出しを行った。摂政宮は同3日以降、東宮侍従らを神田、本郷、浅草、上野、横浜などに派遣して状況把握に努めた。震災直後、新聞社の多くが被災して東京では新聞が発行されず、情報収集は困難であった。
摂政宮自身の被災地視察は当初、9月8日実施の方向で検討されていた。しかし、積極的な戒厳司令官福田雅太郎と、後ろ向きの陸相田中義一の間で意見対立があった。東京の治安悪化が最大の懸念材料で、陸相や側近が躊躇(ちゅうちょ)した。
結局、視察は9月15日に実現した。前日14日夜、皇室記者として著名であった『婦女界』誌の高尾謙一が呼ばれ、摂政宮は同誌が撮影した映像(活動写真)を見た。「予習」である。
9月15日午前6時、摂政宮は赤坂離宮を出発し、上野、万世橋などを経て、午前8時40分離宮に戻った。このとき、摂政宮は馬に乗った。3日後の9月18日にも上野まで自動車で移動後、火災被害が大きかった下町を中心に馬で視察した。なかでも火災によって多数の死傷者が出た本所(ほんじょ)の被服廠(ひふくしょう)跡への立ち寄りがクライマックスだった。「被服廠跡では立ち上る死体焼却のけむりをながめられ畏おほくもお馬を止められ挙手、死者の霊をとむらはせられた」(『東京日日新聞』9月19日夕刊)。
「皆無事か」と声掛け
摂政宮の場合は「視察」に留(とど)まったが、貞明皇后は「お見舞い」に相応(ふさわ)しい被災地巡回を行った。日光に滞在していた貞明皇后は9月29日、東京に戻った。上野駅に到着したその足でそのまま上野公園を訪れ、被災者の収容施設を見舞った。浅草から焼け出された手山りん(49)という女性に「眼が悪いの?」と声を掛けた。また、御徒町(おかちまち)の富田いとが3人の子どもを抱えているのを見ると「兄弟は何人か、皆無事か」とねぎらった(『東京朝日新聞』9月30日)。皇后が現場で被災者に声掛けするのは近代天皇制下で初めてだ。
この背景には、貞明皇后が事前に報告を聞き、とくに子ども、妊産婦の医療が足りないと考えたことがある。皇后の発意によって宮内省巡回救療班が組織され、9月14日から翌年3月までの間、無料で被災者の診察が行われた。これに当たったのは臨時に宮内省に雇用された医師、看護師、産婆(今の助産師)らであった。初日(9月14日)の活動では、「驚愕心労」(災害ストレス)の結果、「乳分泌障害」のため授乳困難な母親が多かったとの記録が残っている(宮間純一「『巡療日誌』からみる宮内省巡回救療班の活動」)。
皇室が被災者を見舞うという行動は、摂政宮や貞明皇后が慈悲深い心を持っていたからという見方は、歴史的な観点から見ると近視眼的である。大正期、日本においても大衆社会が出現し、皇室は大衆からの支持を調達しなければ(皇室人気がなければ)存続しづらい状況が生まれていた。同時期、ロシア、ドイツ、オーストリアで王政が廃止された。人々と隔絶した場所にいるのではなく、人々に近い皇室(のちに大衆天皇制と呼ばれるような皇室)が求められるようになっていたのである。こうした状況下に起きた関東大震災は、皇室の存在意義を転換させるきっかけになった。
宮内庁書陵部図書課宮内公文書館編『摂政宮と関東大震災―宮内庁の記録から』(改訂版)を参照した。
もり・ようへい
成城大文芸学部教授。1964年生まれ。博士。毎日新聞で皇室などを担当。CNN日本語サイト編集長、琉球新報米国駐在を経て、2017年から現職。著書に『天皇家の財布』(新潮新書)、『天皇家の恋愛』(中公新書)など