小説 高橋是清 第191話 昭和恐慌=板谷敏彦
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(前号まで)
宿願の金解禁を実行し、ロンドン海軍軍縮条約を実現させた浜口雄幸首相は、東京駅のホームで凶弾に倒れる。首相不在の議会は統帥権干犯問題で揺れ、軍部の政界進出を助長する。
昭和4(1929)年7月2日に浜口内閣が金解禁を掲げて成立した時、ドル・円相場は安値100円=43・75ドルだったが、そこから旧平価である49・846ドルまで戻していった。何しろ政府が旧平価で金解禁を行うというのであるから、リスクはあるものの相場格言「国策に売りなし」である。
貿易業者は輸出代金の回収を早め(円買い)、輸入代金の支払いを遅らせる(円売り)「リーズ・アンド・ラグズ」という行為に走るし、金融機関や投機家も、金解禁で円高になることが保証されているような相場である。
すると円買いを相対した横浜正金銀行には正貨がたまる、これを政府が買い取り、政府の正貨残高とした。
かくしてドル・円は旧平価まで戻して翌年の1月11日には金解禁にこぎつけたわけだが、達成すると今度は一転して逆調となり、ドルを買い戻す。20日には外銀が円を金に兌換(だかん)してニューヨークやロンドンへ現送、30日には三井銀行ほか邦銀の正貨現送が始まった。解禁後2カ月で1億5000万円の正貨が流出、昭和5年を通して2億8800万円が流出した。さらにこの流れは翌昭和6年にも続く(第180話図参照)。
暴落また暴落
貿易赤字の状況の下で、円高にして金本位制に復帰するには、緊縮財政によって思い切って国内需要を収縮させ、輸入を制限し、物価を引き下げて低コストによって輸出を増やすしかないと井上は考えていたのだろうが、対外輸出は激減してしまった。
さらに日本の金解禁の直前に発生した昭和4年10月24日の米国の暗黒の木曜日は(第186話)、昭和5年に入ると大恐慌の様相を見せ始め、3月3日には、日本の対米輸出の主力であり、当時の外貨の稼ぎ頭であり、米国では贅沢(ぜいたく)品である生糸の相場が大暴落、市場は恐慌状態に入った。
また米国市場の縮小によって中国をはじめとするアジア諸国も不調となり、これは日本が綿製品や雑貨を輸出している地域でもあったので輸出は極度に落ち込んだ。
金解禁実行後、株式市場は相場もアク抜けかと株価も落ち着いていたが、すぐに正貨の流出を気にして軟化、総選挙結果待ちの閑散状態も、与党が大勝しても反応せず、生糸をはじめとする商品相場の下落を気にして総悲観の状態となった。
さらに4月4日、インドが、綿業関税保護法を成立させると紡績株は大暴落となった。世界的不景気が保護貿易の姿を見せ始めていたのである。
遠山証券(現・SMBC日興証券)の創業者遠山芳三はこう嘆いた、
「金解禁は意外の不況を招いて、相場は暴落また暴落でした。井上蔵相のやることに間違いはなかったのですが、折あしく世界的不景気の時期にぶつかったのです。アメリカあたりでも相当不況のようでした。円が強くなったので、どんどん物が入ってきます、物価はどんどん安くなり……」
一方で兜町ではこういううわさも広がった。
「根津(嘉一郎)さんが大蔵大臣を訪ねて、おい、どうしてくれるッと、軟床(カーペット)の上にあぐらをかいて、井ノ準(井上準之助大蔵大臣)を嚇(おど)かしたそうだよ」
根津は甲斐出身の相場師だが、南海電気鉄道、東武鉄道を立て直した実業家でもある。青山の根津美術館は彼が残したものだ。根津が井上に株価対策の直(じか)談判に行ったのは本当で、根津のことだから、ちゃんとやらないと政権を支持できないぐらいのことは言ったに違いない。
井上はなかなか言うことを聞かない日本興業銀行総裁鈴木島吉を更迭すると、結城豊太郎を総裁に据え興銀や、生保証券会社(有価証券共同購入機関)を通じて株を買い支えさせた。
価格恐慌
与党立憲民政党が金解禁を実行し、第17回衆議院総選挙に勝利し、…
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週刊エコノミスト
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