経済・企業 ファミリービジネス奮闘記

豆腐の老舗「染野屋」社長・小野篤人さんの場合

本店の工場に立つ染野屋の小野篤人社長
本店の工場に立つ染野屋の小野篤人社長

 茨城県取手市を本拠地に、豆腐を製造販売する「染野屋」は、江戸時代末期の文久2(1862)年に創業し、160年もの歴史を誇る老舗。8代目「染野屋半次郎」を襲名した社長の小野篤人さん(51)は、実はお婿さん。ありふれた「近所の豆腐店」を飛躍させ、大豆ミートの販売や大豆の有機栽培、地方や海外での事業承継へと、ぐいぐいフロンティアをひらく姿を追う。(清水憲司・毎日新聞経済部)

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 第1章 江戸以来の老舗を継ぐ

 小野さんは幼い頃、大手電機メーカーの研究員だった父親の転勤で取手に引っ越してきた。小学校ではしょっちゅう学校から呼び出される典型的な「問題児」。高校に入ると、プロボクサーを養成するボクシングジムに通った。今思えば、有り余るエネルギーを持て余していた。

大学時代、バイクで北海道を旅行する小野篤人さん 本人提供
大学時代、バイクで北海道を旅行する小野篤人さん 本人提供

 いつしか「自分の力で生きていきたい」と思うようになった。東京の大学に進学し、「バイト6割、学業3割、遊びがちょっと」の1人暮らし。家庭教師やピザの配達員もやったが、土木工事のアルバイトに好んで通った。体を動かすのが好きだったし、1日でしっかり稼げることが大きかった。生活費に加えて、憧れだったカワサキの大型バイク「エリミネーター900」を手に入れ、維持費に月5万円が必要だったからだ。

 バイトを通して、少しずつ社会の厳しさに触れる中で「実業家になりたい」という気持ちが芽生えてきた。自由に、そして自立して生きる。誰かの言いなりになるのではなく、自分の足で立つ。それを実現する道だと思えた。「自由と自立」は、その後も小野さんの考え方の背骨になった。

 実業家という夢は固まったものの、起業するには資金が足りなかったため、大学卒業後はひとまず就職することにした。1995年4月、就職先に選んだのは、大手商社系のリース会社。オフィスを東京・新宿の超高層ビル街に構える「ザ・大企業」だ。企業が保有する車両をリースに切り替えてもらう営業に走り回った。同期入社でトップの営業成績を上げたが、会社にとどまるつもりはなかった。

 2年目に入る頃、輸入雑貨のインターネット通販の代理店事業を始めた。当時は副業禁止だったから、会社には内緒にした。毎夜、帰宅してから作業する。本業を超える収入を稼げたが、ほとんど寝ずに出社する日々。昼間の会議で居眠りするようになり、上司に呼び出されて「お前、仕事が嫌いになったのか」と叱責された。「会社にこれ以上迷惑はかけられない」と悟った。

 会社を辞め、ネット通販で生計を立て始めた頃、中学校の同級生だった女性との結婚を決意した。98年秋、結婚の許しを得るために、彼女の実家、染野家を訪ねると「意外な申し出」を受けた。

まさかの義父の願いと事態の急変

「染野の名前と、豆腐店はどうする」。義理の父となる賢吉さんが切り出した。染野家は江戸時代には豪商だった地元の名家。その名字を引き継いでほしいという気持ちは分かった。それにしても、豆腐店を継げというのはどういうことだろう。彼女は2人姉妹の次女で、家業の染野屋豆腐店に後継者がいないことは聞いていた。とはいえ、家族経営の小さな豆腐店。結婚するからといって、まさか自分が継ぐなんて。全くの不意打ちだった。とりあえず「長い目で考えさせてください」と答えてその場を収めたが、事態は急変する。

 結婚から2カ月後、義父の賢吉さんが急死したのだ。「お豆腐屋さん、少しでも続けられないかな」。義母の節子さんの言葉が心に響いた。親類から「豆腐店って1000万円ぐらい、もうかるらしいぞ」と声を掛けられ、やる気に火が付いた。「一国一城のあるじ。これが自立への道だ」。ネット通販の仕事と二足のわらじでやっていこうと思い立った。

 99年1月、豆腐職人として初めての朝を迎えた。節子さんが賢吉さんの遺影を掲げて作業を見守った。しかし、豆腐どころか料理を作ったこともなく、どんな豆腐がおいしいのかも分からない。見よう見まねで作る度に賢吉さんの豆腐で育った妻に食べてもらった。次第に、大豆を粉砕してドロドロにした「生呉(なまご)」の炊き上げ方にコツがあることが分かってきた。どういう火加減で加熱していけば、甘みを引き出せるか。約1カ月の試行錯誤で、商品として出せる出来栄えになった。

 豆腐は作れるようになったのだが、実際に店を継いでみると、主な販売先は学校給食と地元商店で、年間売上高は300万円ほどしかなかった。1000万円もうかるどころか、自分の給与の原資すらないのが実態だった。もう一つ、豆腐は日本伝統の健康食なのに、輸入大豆や化学凝固剤が使われていることに違和感を持った。「自分のやり方でやってみたい」。大豆は国産に、凝固剤は天然にがりにそれぞれ切り替えることにした。今でこそ珍しくなくなってきたが、当時は業界のはしりだった。

自分の足で売る「移動販売」の成功

 問題は、国産大豆を使うと豆腐1丁110円という従来の価格では採算が合わないことだ。そこで1丁200円で売ることにしたが、従来のお客さんに2倍近い値段で売るのは難しい。悩んだ末に思いついたのが、豆腐を売り歩く「移動販売」だった。初めての試みだったから自信はなかったが、倉庫からホコリをかぶったラッパを探し出し、自家用車に5000円分の豆腐を積み込んで市内を回ると、親しいお客さんの応援もあってあっという間に売り切れた。

 自ら作った商品をお客さんの顔を見て、会話をしながら手渡しで売っていく。「若いのに偉いわね」「近所にも声を掛けてあげるわよ」などと応援された。これまでに感じたことのない手応えだった。

 自分では自分の仕事をやっているだけのつもりなのに、こんなに背中を押してもらえるのはなぜなのだろう。

 小野さんが感じたのは「歴史が応援してくれている」ことだった。日本の伝統食品を国産大豆で作ってほしい。若者の力で地元の産業を支えてほしい。心の底で多くの人が待ち望んでいたのだ。ラッパの音とともに売り歩く、古くからの豆腐の売り方、そして伝統産業を支えたいという人々の思いが小野さんの挑戦を支えていた。

染野屋に専念し取手駅ビルに臨時出店

 家業を継いで5年後の2004年。心の中では「ネット通販がメインで、お豆腐はサブ」が正直なところだったが、一冊の本をきっかけに考えが変わった。『ユダヤ人大富豪の教え』(大和書房)。「自分が何をやりたいのかよく分からない」と悩む日本人青年がユダヤ人富豪と語り合う内容だ。「自分が本当にやりたいことを見つける最良の方法は、今やっていることを愛すること。そうすれば、自分の道が見つかる」。自分が愛せると思ったのは自然と染野屋の方だった。ネット通販をやめ、染野屋に専念すると決心した。

家族でお豆腐を作る小野篤人さん(中央奥、2004年) 本人提供
家族でお豆腐を作る小野篤人さん(中央奥、2004年) 本人提供

 まずは目立つ場所に店舗を出したい。地元の取手市で最も集客力があるのは、JR取手駅の駅ビルだ。アポイントの入れ方が分からず、駅ビルの受付に行って「店を出したいんですが、どうしたらいいんですか」と尋ねるところから始めた。異例のことだったが、担当部長の計らいで催事として臨時の店舗を出せることになった。

 忘れもしない同年2月26日の開店初日。未明から自分と義母で豆腐を作り、駅ビルの臨時店舗で妻が売る。移動販売の合間を見ながら、駅ビルに寄って商品を補充した。とにかく多くの人に試食してもらい、1丁200円の豆腐を売る。どこまで売れるか不安だったが、準備した5万円分の商品が閉店2時間前に売り切れた。それまで1日の売り上げは、妻の実家にある本店で5000円、夕方の移動販売で2万5000円。そこに5万円が上乗せされる計算になった。「やる気さえあれば、どんどん売り上げを伸ばせる」と確信した。

 売り上げは倍増したが、今度は生産能力の不足が問題になった。新工場を建設できるだけの手持ち資金はなく、金融機関から融資を受けられるアテもない。このままでは事業拡大のチャンスを逃がしてしまう。そう悩んでいたとき「本家」から願ってもない提案が舞い込んだ。

 実は、小野さんが継いだ染野屋は江戸末期の文久2(1862)年に創業した豆腐店の分家に当たる。本家は同じ取手市内にある「半次郎商店」。その本家が後継者不在のため工場の借り手を探しているという。「うちに貸してください」。本家7代目の染野青市さんに頼み込んだ。その頃、染野さんは既に80代半ば。息子に先立たれ、何年も前から後継者不在に悩んでいたから快諾してくれた。

「染野屋半次郎」の襲名式で、一緒に写真に納まる小野篤人さん(左)と本家先代の染野青市さん(2014年) 小野さん提供
「染野屋半次郎」の襲名式で、一緒に写真に納まる小野篤人さん(左)と本家先代の染野青市さん(2014年) 小野さん提供

 これで生産能力と従業員を確保できた。しかし、勝手知ったる染野屋の作業場とは大豆を炊き上げる釜も違えば、従業員もひっきりなしに行き来して落ち着かない。本家工場の初日、小野さんはアドバイスしようとする染野さんを「そうじゃない」と退け、しまいには「今日から俺の工場なんじゃい」と怒鳴り声を上げていた。事業を拡大するのは今だ。そのプレッシャーが自分を包み込んでいた。

 本家「半次郎商店」と分家「染野屋」が統合するにあたり、双方の歴代当主が引き継いできた屋号を「染野屋半次郎」とするという染野さんの提案も「お客さんが混乱する」と袖にした。

 それでも、月1回は染野さんを訪ね、話を聞くことにした。最初は50歳以上も年が離れ、耳の遠くなった染野さんと話すのは骨が折れたし、何かにつけて「ご先祖様のお陰」と言うのもピンとこなかった。

心に染み込んだ「本家」の言葉

 しかし、次第に、優しくユーモアのある染野さんの人柄にひかれていった。大正生まれの染野さんは、戦前に自ら志願して兵隊になり、その後迎えた第二次世界大戦のシンガポール陥落の際には現地にいたという。戦時体験に加え、引き込まれたのは江戸時代から続く歴代当主の逸話だ。染野さん自身も豆腐職人として、燃料がまきから石炭、石油へと変遷する時代を生き抜いてきた。その経験をとつとつと語った。

 自立して生きるため、とにかく成功するために走り続けてきた自分。それに対して、染野さんの話を聞いていると、皆が互いを気遣い、助け合って生きていた「江戸」の空気を吸い込んでいるような気持ちになった。早くまた会いたい、早く話の続きを聞きたい──。いつしか染野さんは「親友」になっていった。

「自分の代で半次郎商店を途切れさせては、ご先祖様に顔向けできない」。染野さんが繰り返す言葉も心に染み込むようになった。最初は「本家も継いであげますよ」だった気持ちが「ぜひ継がせていただきたい」に変わっていった。

 2014年7月、小野さんは8代目「染野屋半次郎」を襲名する。染野さんとの10年がかりの交流で、150年を超える歴史を最低限吸収できたと感じたからだ。そして、染野屋と半次郎商店を統合した「染野屋半次郎」という新屋号が誕生した。「この日が来るまで死ねない」と言っていた染野さんの晴れやかな表情が忘れられない。

 その3カ月後、96歳になっていた染野さんの体調が急変する。知らせを受けて駆け付けた病室で、染野さんの手を強く握り締めた。本当は「もう大丈夫」「これから一緒に事業を大きくしていこう」と言いたかったが、何か言葉を発したら「さよなら」になりそうで。10年間の思い出があふれて、こらえた涙が止まらなくなりそうで。言葉が胸につかえたまま、2人は手を握り続けた。

「悔いはねえよ。あとは任せたよ」。それが染野さんの最期の言葉だった。「歴史を背負っていく」。小野さんはそう決意した。

 第2章 経営危機を乗り越える

 本家筋の豆腐店「半次郎商店」の工場を借り受け、生産力を大きく拡大した2004年、染野屋の小野さんはそれまでの5年間、自分一人でやってきた移動販売を強化すると決めた。工場の費用を賄うには売り上げを伸ばす必要があったからだが、店舗の開設ではなく、移動販売を選んだのは、自ら作った商品を、お客さんの顔を見て、手渡しで売る方法にほれ込んだからだった。

 実は、本家工場を使い始めた頃、一時的に豆腐の味が落ちてしまった。豆腐作りは大豆の炊き上げ方が命だ。本家工場の釜は、それまで妻の実家、染野屋で使っていた釜とは違う。コツをつかむのに時間がかかる中でも、移動販売のお客さんは「釜が変わったら、味が落ちても仕方ない。応援してるわよ」「早くおいしいお豆腐にしてね」と待ち続けてくれた。「移動販売こそが染野屋」と思うようになった。

県境を越えて販売 売り上げは10億円に

 移動販売の軽トラを初年度に4台、翌年度には10台超と増やしていったが「毎月のように警察のお世話になった」。宅配便のトラックと道路の譲り合いでけんかになって、警察に呼び出されることが少なくなかった。また、社員の中には「電卓を使ったことがない」「漢字を書けない」という人もいた。

「俺は何屋だっけ?」と思うこともあったが、かつての自分と同じように、ありあまるエネルギーを持った社員たちが大好きだった。戦国時代の武将、蜂須賀小六が野武士集団を形成したように「社会に組織されていない『一匹オオカミ』が集まってくることに、ワクワクを感じていた」。そんなヤンチャな社員たちを率い、4~5年目には県境を越えて千葉、埼玉に進出。8年目に売り上げは年間10億円を超えるようになった。

移動販売車の前で、社員と会話する小野篤人さん(右)
移動販売車の前で、社員と会話する小野篤人さん(右)

 ありふれた「近所のお豆腐屋さん」が、売り上げ10億円の企業に飛躍した。次のステップとして株式上場を意識し始めた。上場すれば資金調達は円滑になり倒産リスクは下がり、社員の社会的信用も高まる。上場準備の担当者を置き、社内体制の整備に入った。

 正確な決算報告をし、業務上のミスをなくすため、社内ルールを整備していく。「立派な企業にならないといけない」という強迫観念からか、管理部門のスタッフが新人に「エレベーターは肩書が偉い順に降りる」という指導を始めた。その時は気づかなかったが、強さの源泉だったヤンチャな社風とは正反対の方向に向かっていた。

震災による風評被害 止まらない赤字

 11年の東日本大震災が追い打ちをかける。本拠地の取手市を含むJR常磐線沿線は、原発事故の風評被害に見舞われた。「あなたのところ、取手でしょ。もう買わないから」。お客さんから面と向かって言われるようになった。売り上げが減少に転じたのに加え、東北地方からの大豆の供給停滞や天候不順が続き、国産大豆の価格が高騰。一気に赤字に転落した。

 風評被害を払拭(ふっしょく)するため、静岡に第2工場を購入。世界的な健康志向の波に乗って、欧州市場に進出する計画も進めた。しかし、どこに向かおうとしているのか、会社の軸が見えなくなった状態では、何をやってもうまくいかなかった。4年間にわたる赤字の垂れ流し。真綿で首を絞められるように追い詰められていった。

「どう計算しても2カ月後には給料が払えなくなる」。2018年の年初。あてにしていた資金繰り計画が頓挫する。染野屋の株式を大手企業に引き受けてもらい、傘下に入ることで資金繰りを安定させるつもりだったが、出張中のパリで「この話はなかったことにしてください」と突然言い渡された。

 絶体絶命のピンチだったが、その瞬間、むしろ胸のつかえが下りたような気がした。社員一人一人が自立して動く「一匹オオカミ」の集団を作りたくて染野屋を経営してきた自分が、大手企業に身売りをしたいはずがなかった。「破談になればいい」と心のどこかで願っていたのだ。

 万策尽きて、社員たちに倒産の経緯を説明する──。そんな未来は、どうしても想像できなかった。なにしろ、染野屋は江戸末期の文久2(1862)年創業の老舗なのだ。本家「半次郎商店」先代の染野青市さんとの10年間の交流を経て、8代目「染野屋半次郎」を襲名した自分が、その歴史を終わらせるわけにはいかない。「絶対に潰せない」。残された時間はわずかだったが、「今までできなかったことを全てやろう」と決意した。

 パリから帰国すると、すぐさま各地の営業所をテレビ会議システムでつなぎ、社員たちに「君たちは染野屋ファミリーだ。とにかく信じている。愛している」と熱く語った。

 幼い子どもを会社に連れてくることを認める「子連れオオカミプラン」という働き方を導入したり、一人一人の誕生日を祝ったりと、社員たちを家族のように考え始めると、営業所の雰囲気が明るくなり、結束が強まった。

 販売成績が優秀な社員には「エメラルド」「サファイア」といったピンバッジを贈呈し、社員みんなにそれを知らせることにした。現場の動きを鈍らせていた社則も廃止した。

 それまでは営業所を回っても、直立不動で緊張していただけの社員たちが駆け寄ってきて、口々に販売拡大や経費削減のアイデアを提案するようになった。社員たちの笑顔ときびきびした動き。何年も歯車がかみ合わなくなっていた現場にエネルギーが満ちていくのを感じた。

「この危機を乗り越えたら、本物のチームワークが手に入る」。その思いは現実になった。18年3月、売り上げ増と経費削減の効果で、何とか資金繰りがついた。そして翌年度、染野屋は過去最高益を記録する。全ての営業所、全ての部門の業績が改善したのは、この再生劇が誰か一部の社員の頑張りではなく、全員の結束によって生まれたことを物語っていた。

 今振り返ると、経営危機は「染野屋を『本物』にするために用意されていたのではないか」と感じる。社員の有り余るエネルギーを結集する。一度は手放しかけた原点を自らつかみ取った染野屋は、再び飛躍の時を迎えた。

 第3章 各地の豆腐店を継ぐ「養成所」に

 経営危機から時計の針を少し戻す。小野さんにとって転機になったのは2009年、長女の誕生だった。これを機に深刻化する地球温暖化や環境汚染の問題について本気で考えるようになった。感じたのは「こんな時代に産んで申し訳ない」ということ。社会に影響を与えられる大人として、何もしないわけにはいかない。ある日、ポール・マッカートニーさんが週1回、肉を食べるのをやめる「ミート・フリー・マンデー」という活動を提唱していると知った。

持続可能な社会へ新たな「使命」

 環境負荷の高い食肉生産を減らすため、食事を植物性たんぱく質に切り替えていく。「青い鳥はすぐそばにいた」。自分が豆腐を通じて扱ってきたのは植物性たんぱく質の宝庫である大豆。その大豆を原料に肉のように食べられるおかずを開発、浸透させて、持続可能な社会を作る。会社経営の目的を見失いかけていた小野さんに、新たな「使命」が舞い降りた。

本店の工場を見て回る染野屋の小野篤人社長(右)
本店の工場を見て回る染野屋の小野篤人社長(右)

 最初に取り組んだのは、豆腐を加圧・脱水して肉のような食感にする技術の開発だった。数年間の試行錯誤の末、大手商社の社長を招く試食会にこぎ着けた。しかし、勝負を懸けた、その日に大失敗した。肉そっくりな食感になるはずが、普通の豆腐のようだった。いつもと同じように加圧・脱水をしても、日によって食感が大きく異なり、成功したり失敗したりするのが、この技術の難点だった。

 環境破壊は日々進んでいる。自社製にこだわるのはやめた。大豆の植物性たんぱく質を繊維状にして固めることで、肉のような食感にした「大豆ミート」を他社から仕入れ、商品化することにした。しかし、大豆ミートは調理にコツと時間が必要だ。そこで特殊な調理法を開発し、味付けも終えた冷凍食品「SoMeat(ソミート)」として売り出した。あぶり焼き、唐揚げ、ひき肉と商品の種類を増やし、小売りや外食業界との連携を進めている。

 農作物生産の環境負荷も見逃せない。そう悩んでいた頃、畑を耕さず、雑草も放置することで、温室効果ガスを土中に閉じ込める「不耕起農法」に出合った。この農法は環境にいいだけでなく収量も上がり、農業として利益も出る。米国発祥であるこの農法の成功者のゲイブ・ブラウン氏と直接コンタクトを取り、ノウハウを吸収した。

不耕起農法で栽培した大豆を収穫する小野篤人さん(2021年) 本人提供
不耕起農法で栽培した大豆を収穫する小野篤人さん(2021年) 本人提供

 21年には地元の取手市で、後継者不在のため休耕地になっていた畑を借り、試験的に大豆の不耕起農法を始めた。もちろん農薬も化学肥料も使わない。実際の栽培ノウハウを蓄積し、数年で休耕地を抱える全国の農家に広げていき、地球温暖化対策に役立てる。小野さんが自らに設定した新たな「使命」だ。

 1960年ごろ、全国には約5万の豆腐製造業者がいたが、近年は約6000にまで減少した。生産量や消費量はあまり変わらないから、規模の小さい「近所のお豆腐屋さん」が大きく減ったことになる。妻の実家に続き、本家の豆腐店「半次郎商店」も引き継いだ小野さんのもとには「廃業するお豆腐屋さんを継いでほしい」という提案が舞い込む。

 小野さんは2018年に経営危機を乗り越え、チームとしての強さを手に入れた染野屋を「各地の豆腐店を継ぐ輩(やから)の養成所にしたい」と考えている。自ら作った豆腐をお客さんに手渡しで売る移動販売にはこだわるつもりだが、事業承継した豆腐店を自分の色に塗り替える考えはない。それまでの屋号を残し、あくまで「継ぐ」という形にする。染野屋で育った「一匹オオカミ」のような社員たちが、地域で何十年も続いてきた豆腐店の味と伝統を受け継いでいくというビジョンだ。

山下ミツ商店の株式譲渡成約式を終えた山下浩希さん(前列右から2人目)と染野屋の小野篤人さん(同3人目)(2021年) 山下さん提供
山下ミツ商店の株式譲渡成約式を終えた山下浩希さん(前列右から2人目)と染野屋の小野篤人さん(同3人目)(2021年) 山下さん提供

 最初の案件として、21年に石川県白山市の豆腐店「山下ミツ商店」の事業を引き継いだ。経営者の山下浩希さんには、染野屋のグループ会社となった山下ミツ商店の会長として引き続き経営に関わってもらう。国産大豆100%、天然にがり100%というこだわりや名産の「堅(かた)とうふ」をはじめ、山下さんが30年以上かけて育ててきた自社製品の製法やラインアップは一切変えなかった。

生かされた移動販売のノウハウ

 一方で、染野屋の移動販売ノウハウを注ぎ込んだ。同じ地区には同じ曜日、同じ時間帯に回り、山下ミツ商店の名前と商品、販売員の顔を覚えてもらう。定番に加え、常連客を飽きさせないよう季節商品を入れ替え、常に新鮮さのある品ぞろえにしておく。利便性もさることながら、顔を合わせ、会話しながら売っていく移動販売という手法が顧客との結び付きを強くしていく。

 染野屋のノウハウを得た山下ミツ商店は22年5月に金沢営業所を開設して石川県内の主要地域をカバーする体制を整え、23年11月には富山営業所も開設。売上高は約2倍に増え、続いて福井県や新潟県へと販売エリアを拡大していく計画を進めている。

 グループは海外にも拡大した。22年9月、日本人夫妻が経営していたスペイン・バルセロナの豆腐店を事業承継し、染野屋で育った若手社員を送り込んだ。おいしい豆腐を食べたことのない人が多く、ラッパの音一つで「豆腐だ」と分かってもらえる国内とは状況が大きく異なる。商慣習の違いに戸惑うことも多いが、豆腐に加えて日本食の弁当や総菜を電動スクーターで配達するところから始めて、まずは売上高を約2・5倍にまで押し上げた。

 昨年11月にはマレーシア・クアラルンプールに基盤を持つ日系企業からの要請で、合弁企業として現地に海外2号店を開設した。マレーシア在住日本人や現地の人々の需要を取り込む考えだ。

人生の不思議 つながる縁

 ヤンチャだった自分が「婿殿」として継いだ豆腐店に、これほど心血を注ぐことになるなんて。人生は不思議だと思う。

 しかし、一つ思い当たることがある。小学4年か5年の頃、通学路の脇にあった花壇にカンナの花が植えてあり「かわいがってくださいね」という看板が立っていた。「じゃあ、かわいがってやろう」。いたずらっ子だった小野少年は看板をなぎ倒し、花壇もメチャクチャにした。

 それから約20年後。結婚したばかりの妻がふと「ここに花壇があったの、覚えてる? お父さんと一緒に植えて看板も立てたのに、誰かが壊しちゃって。ひどいことをする子がいたんだよね」とつぶやいた。「それ、俺だ……」。もし結婚前に義父がそのことを知っていたら、結婚を許してくれなかったかもしれない。「なぜ自分はここにいられるんだろう」と考え込んだ。

 思い返せば「一生結婚しない」と公言していた自分が、中学校以来、久しぶりに会った瞬間、雷に打たれたように感じて妻との結婚を決めていた。その半年後には染野屋を継ぐことになった。

かつて豆腐の販売で使われていたおけを肩に乗せ、ポーズをとる染野屋の小野篤人社長
かつて豆腐の販売で使われていたおけを肩に乗せ、ポーズをとる染野屋の小野篤人社長

 小野さんはこんなふうに考えている。江戸末期から続く「歴代半次郎の仕業」だったに違いない。花壇を壊す小野少年を見て「こいつはエネルギーの塊。見どころはあるが、使い道が分かっていない」と目を付けた。そして分家の娘と結婚させ、本家も継がせた。7代目当主だった染野青市さんとの出会いと別れ、経営危機という苦難、従業員の潜在力を引き出した経営再生といった経験を与えながら、小野さんを8代目染野屋半次郎として育てた。そんな不思議な力を感じている。

「誰かのため」出せた底力

「自分の道は自分で切り開く」と思っていた自分が、実は運命に導かれていたのかもしれない。そう思うようになって、自分の底力が出せるのは「自分のためではなく、誰かのためを思って行動している時だ」ということに気づいた。

 後継者不在だった「山下ミツ商店」(石川県白山市)を2021年に事業承継したのも、スペイン・バルセロナとマレーシア・クアラルンプールの豆腐店を引き受けたのも、相手から求められて、自分のやる気に火が付いた。そもそも染野屋を継いだことも、義父が急死し、義母からかけられた「お豆腐屋さん、少しでも続けられないかな」という言葉が出発点だった。

「人生に偶然はない。全ては必然だ」。小野さんはこれからもその時その時の出会いや縁を生かして、変化し続けていくつもりだ。どんな変化があっても、小野さんが「染野屋ファミリー」と呼ぶ信頼で結び付いた従業員たちと共に、仕事も遊びも本気で取り組めたら、それでいい。自分の愛するファミリーが活躍できるフィールドを整え、日々を楽しく有意義に送れる環境をつくっていく。それが経営者の仕事だと考えている。


週刊エコノミスト2024年5月14・21日合併号掲載

小野篤人さんの場合

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