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少子化が政策課題にならなかった三つの理由と理解しておくべき六つの論点 松浦司

 日本最大の課題である少子化問題を議論する際には、「リプロダクティブ・ライツ」をはじめ、六つの論点がある。

少子化対策と並行して人口減対策も必要

 現在、少子化問題は日本の最も重要な政策課題であり、岸田政権も「異次元の少子化対策」として、主要な政策の柱に位置付けている。

 日本の合計(特殊)出生率(15〜49歳までの女性が一生の間に産む子どもの見込み数)は、1975年には2を下回り、それ以降も一貫して低下し続けた(図)。しかしながら、戦後長らく、80年代後半まで少子化が政策課題として認識されることはなく、日本の少子化が問題として広く意識されるようになったのは、89年の合計出生率が66年の丙午(ひのえうま)を下回る1.57を記録した「1.57ショック」を契機とする。

 なぜ、認識することが遅れたのであろうか。第一に、日本では明治以降、戦時期の一時期を除き、人口減少より過剰人口のほうが大きな課題として受け止められていたためである。敗戦後、日本は居留民や復員将兵の日本への帰国、戦後のベビーブームによって、過剰人口に直面した。

 第二に、合計出生率は低下したが、人口は増加し続けたことが挙げられる。本格的に合計出生率が人口置換水準(人口が長期にわたり増減せず、一定となる出生水準、2023年では2.07)を下回り続けたのは74年以降で、75年以降は2を下回り続けた。しかし、当時は出産期の女性の絶対数が多い人口構造であり、人口は増加し続けたために、人口減少や少子化に対する問題意識は薄かった。たとえば、厚生省(当時)人口問題研究所が90年に実施した「人口問題に関する意識調査」では、日本の人口を多過ぎると考える人の割合が46.7%もあった。

人口政策に歴史的忌避感

 第三に、歴史的に人口政策が戦争と密接な関係があったためである。過剰人口が日本の対外侵略の背景にあったこと、戦時期の「産めよ殖やせよ」政策が「リプロダクティブ・ライツ(産むか産まないかを自分で決める権利)」を侵害した歴史の記憶が強く残っていたためである。厚生省の元事務次官である吉原健二氏は、『日本公的年金制度史』のなかで、「昭和の時代には国が人口の少子化を問題視するのはまだタブーであり、平成になってやっとそうでなくなった」とする。また、評論家の鶴見俊輔氏は、84年に出版された『戦後日本の大衆文化史』の中で、「人口の増加を抑制するということは、日本国民の一つの知的達成」と述べており、人口政策がかつての戦争と関係していた事実は多くの人に忌避感を伴って意識されていた。

 このような少子化に対する問題意識が弱かったことを反映して、日本政府の少子化問題に対する取り組みも、80年代終わりごろまではほとんど存在しなかった。国連人口部が各国政府に行った人口政策に関するアンケート調査の結果でも、日本政府は出生政策について、01年までは非介入としている。03年になってようやく「促進政策」と回答している。

 89年の「1.57ショック」によって、はじめて少子化が広く問題視されるようになった。その後、90年代には子育てを各家族ではなく社会全体で取り組むべきとした「エンゼルプラン」や「新エンゼルプラン」が策定され、03年には「少子化社会対策基本法」や「次世代法」などの法律が制定された。09年に民主党が政権を担当すると、従来のような保育や育児支援に加え…

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