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小泉今日子の心意気 第1回~歌を響かせよう、この時代に 松尾潔

小泉今日子さん
小泉今日子さん

トップアイドルはいかに「わたしの歌」をうたうようになったのか

◇蓮舫に連帯表明した小泉/「遠い目をしている場合じゃない」

 小泉今日子とは誰だろうか? アイドルを超えるアイドル。先鋭サブカルチャーの象徴。語りかけてくる歌手。役に憑依する演者。言葉を操る書き手。そして不公正への毅然とした発言者…。キョンキョンの多様な顔の全体像と、その変貌の軌跡をつらぬく「心意気」に、俊英作家が迫る――。

 2024年6月29日。東京都知事選挙の投票日を8日後に控えた土曜日。都知事選の有力候補である蓮舫(本名:齊藤蓮舫。1967年11月28日生)は、午後2時からJR阿佐ケ谷駅南口で、午後5時からは吉祥寺駅北口で街頭演説会を予定していた。

 開催前からとくに注目を集めていたのは阿佐ケ谷である。中央線では西荻窪と並び〈リベラルの砦(とりで)〉というイメージがつよい阿佐ケ谷での演説には「女性の声が東京を変える with 蓮舫」と銘打って、応援弁士として田村智子(共産党委員長)、福島みずほ(社民党党首)というふたりの大物政治家をはじめ、地元・東京8区の吉田はるみ衆院議員(立憲民主党)、岸本聡子(杉並区長)らが集うことが事前告知されていた。

 さながらリベラルクイーンズ結集の様相を呈するラインナップに、SNSではマーベル・コミックのスーパーヒーローチーム総出演映画『アベンジャーズ』を引き合いに出す者まで登場した。

◇同時代同世代のトップランナー2人

 音楽評論家・作詞家の湯川れい子のアシスタントを経て、音楽や相撲、そして近年では政治に関する著作が注目を集めるフリーライターの和田靜香(1965年生)もまた、阿佐ケ谷に弁士として登場することが決まっていたひとりである。6月28日午後8時29分、彼女はX(旧ツイッター)に翌日の演説を告知するポストを投稿した。

 翌29日。阿佐ケ谷街頭演説まで3時間半を切った午前10時38分。小泉今日子(本名同じ。1966年2月4日生)は、自らが代表を務める舞台や映像、音楽、出版などのエンターテインメント作品をプロデュースする会社「株式会社明後日(あさって)」の公式Xで、前夜の和田の告知ポストに対してリプライ(返信)を投稿した。「行きたいーーーーー! でも仕事だ(文末には〈泣き顔〉の絵文字)」

 それからわずか9分後の午前10時47分、小泉は、今度は蓮舫が自身のXのプロフィールに固定表示していた6月21日のポストに対して引用リポストする。「15歳の時にデビューが決まって住み始めた東京。私も1人の若者だったと遠い目をしている場合じゃない。次の世代に何が残せるのか考えさせられます」

 引用元となった蓮舫の固定ポストは、都知事選出馬にあたっての公約をコンパクトにまとめた動画投稿。いわば蓮舫候補のネット選挙における起点であり、〈公式ポスト〉ともいえる。そこで蓮舫が動画に添えたテキストメッセージは次の通りだった。「東京には夢がある。東京はもっともっと良くなる。もっと良くする。蓮舫と次の東京へ。ぜひ、見てくださいね。」

 つまり、小泉は「見てくださいね」と訴える蓮舫の意に応えただけではなく、「私も」「遠い目をしている場合じゃない」「考えさせられます」と踏み込んだエールを送ってみせたのだ。見ているだけではないよ、私だって当事者だよ蓮舫さん、と。

 これは事実上の連帯表明だった。かつては同じ芸能界、テレビ業界で活躍していた蓮舫候補にとって、40年以上もの長いあいだトップスターの地位に君臨しつづける小泉の2つのポストは、どれほど大きな励みになったことだろう。

 それから30分たらずの午前11時16分、蓮舫も小泉に引用リポストを返す。「来て欲しいーーーーー! でも。気持ちだけでも嬉しすぎます(文末には〈目が笑っている笑顔〉の絵文字)」 ここで長音符「ー」の数が、小泉の「行きたいーーーーー!」と見事に調和していることにお気づきだろうか。ネット空間におけるレスポンスの速さ、リテラシーの高さ、そして微(かす)かに漂うユーモアセンス。それらを示すようなテンポの良いやりとりは、小泉と蓮舫が同じ時代を生きてきた同世代のトップランナーであることを端的に示す。

 都知事選の有力候補となった蓮舫を小泉今日子がサポートする、2024年。

 小泉の2学年下、蓮舫とは同学年にあたるぼくは、胸が熱くなるような興奮としみじみとした感慨を同時におぼえながら考えた。彼女たちがデビューした1980年代に、この構図を予想できた人はひとりでもいただろうか、と。                                  

松尾潔氏のインタビューを受ける小泉さん
松尾潔氏のインタビューを受ける小泉さん

◇「スター小泉」の軌跡から零れ落ちる特質

 1982年3月21日、小泉今日子は「私の16才」でアイドル歌手として芸能界にデビューした。曲タイトルが何をか言わんや、当時まさに16歳。

 そのキャリアを語るとき、必ずついて回るのは「花の82年組」というフレーズだ。これは文字通り1982年にデビューしたアイドルを指す。70年代を代表する女性トップアイドル山口百恵(59年1月17日生)が結婚引退した80年、バトンを継ぐようにその座に就いたのが、同年デビューの松田聖子(62年3月10日生)である。松田の成功に色めきたった芸能界は、各社で競うように女性アイドル発掘に躍起となる。その成果が表面化したのが82年―これが有力とされる説だ。

 82年組の主だった顔ぶれは、小泉と同日にデビューした堀ちえみ(67年2月15日生)と三田寛子(66年1月27日生)、4月デビューの早見優(66年9月2日生)と石川秀美(66年7月13日生)、5月デビューの中森明菜(65年7月13日生)、加えて前年81年10月デビューながら同期扱いとなる松本伊代(65年6月21日生)など。男性ではシブがき隊、新田純一(63年5月8日生)らがいる。 なつかしい名前がある。なつかしい人たちがいる。名前を列挙するだけで、ひとの数だけ人生があることを痛感せずにはいられない。

 同時に、なぜここから小泉がひとり頭抜(ずぬ)けた存在として質・量ともに破格の活躍を続けてきたのかと考えずにもいられない。

 まず歌手としては、82年組として唯一のミリオンセラー経験者である。それも2曲ある。「あなたに会えてよかった」(91年)、そして「優しい雨」(93年)。ちなみに両曲とも作詞は本人によるもので、前者では第33回日本レコード大賞の作詞賞を受賞してもいる。ソロ歌手として小泉以上に華やかな受賞歴を誇る中森明菜には、意外にもミリオンセラーはない。

 俳優としての活躍もめざましい。映画、テレビ、舞台でバランスよく活動し、主役としてもバイプレイヤーとしても、さらにナレーターとしても重宝がられている。作品を重ねるごとに天性の素質を確かなものに磨きあげた印象があり、88年の和田誠監督作品『怪盗ルビイ』(同年度キネマ旬報ベスト・テン第10位)に主演する頃にはもう、小泉の演技をアイドル歌手の余技とみる人はほぼいなかったのではないか。その後、数かずのヒットや受賞経験に恵まれてきたことはよく知られるところ。

 そして忘れてはならないのが著述家としての道のりだ。2005年から2014年まで5期10年間にわたって読売新聞の読書委員を務め、書評を書きつづけてきたことは有名である。それらは15年に単行本『小泉今日子書評集』として結実する。読み巧者としての定評に書き手としての高い評価が加わることになったのが、雑誌『SWITCH』の連載エッセイをまとめた『黄色いマンション 黒い猫』(16年)。仕事、友人、家族、社会……個人的な体験を淡々とした筆致で描くことで昇華させ、大人の諦観をにじませる文章術は彼女だけのものだ。同書で小泉は第33回講談社エッセイ賞を受賞している。

 これだけの「功績」を記していけば、小泉今日子が戦後芸能史に残るスターであることを疑う者はまずいないはずだ。

 だがぼくは、小泉のあざやかな軌跡を書き進めていくごとに、そこから零(こぼ)れ落ちるもの、あるいはそれだけでは表現できない彼女の特質があるように思えてならない。

◇ジャニーズ問題、森友問題への言及

 というのも、小泉今日子とぼくの間にはいくつか接点があるからだ。

 最初に会ったのは96年だから、30年近くも前のこと。スター小泉にとっても、当時ブラックミュージック専門の音楽ライターだったぼくにとっても、異色の顔合わせとなるインタビューの現場だった。それをきっかけとして彼女の音楽制作の現場に誘われ、1枚のアルバム(『KYO→』98年)の完成を見届けた。

 再会は今年に入ってから。つまり四半世紀もの歳月が横たわっている。年の初めにぼくが上梓(じょうし)した『おれの歌を止めるな』(講談社)という社会時評エッセイ集が、小泉が近田春夫とふたりでDJを務める首都圏のFM局J−WAVEの番組「TOKYO M.A.A.D SPIN」に〈今月の課題図書〉として取り上げられた。同書のなかでぼくが取りあげたジャニーズ問題、それを生みだしたメディアや広告業界の腐敗ぶりについて、小泉は番組のなかで忌憚(きたん)のない発言をして、それはネットをにぎわせるニュースとなった。近田とは近い関係にあったぼくは、その放送を聴いてじつに久しぶりに小泉今日子という存在を身近に感じることとなった。共鳴に近い心の動きがあった。

 そのとき敏感に反応したひとりが、先述したライターの和田靜香である。昨秋、和田と小泉は下北沢の「本屋B&B」でトークイベントを行った。50代シングル女性同士のやりとりは評判になったものだ。そして3月、今度は和田が司会を務めるかたちで、小泉とぼくの初めての公開対論がB&Bで実現したのだった。

 そのときの模様はテキスト化され、いまでは講談社のウェブサイト「現代ビジネス」で読むことができるので閲覧をつよくお勧めしたい。なかでもぼくが胸打たれたのは、小泉の以下の発言だ。「私、自分の時間は縦に流れるだけじゃなく、横にもあると思っているんです。いまの私が勇気を出して前に一歩出ると、過去の私も未来の私も一歩前に出るんじゃないかな(略)そう感じると『16歳の私ががんばったから、いまの私はここに立っていられるんだな、ありがとう』みたいな気になるし、『面倒くさいことは先にやっておくからね』という気になって、自分と仲良くできる感じがします」

 これには会場を埋め尽くした観客から大きな拍手が起きた。エンパワーメントとはこういう言葉の効力を指すのだろうと実感した。

 だが、それだけでは終わらないのが小泉今日子の懐の深いところである。「だから自分の時間や過去は変えられるけれど、他人に関わること、歴史は改竄(かいざん)してはだめ。だけどいま、やろうとしているじゃない」

 チクリと、ではない。ドスッと刺す。何を。時代を。この国を。太いよ、コイズミは。これが彼女のグルーヴなのだ。森友学園への国有地売却をめぐる公文書改竄問題で改竄を強いられ自死を遂げた近畿財務局職員・赤木俊夫さんを意識しているのは、その話しぶりから明らかだった。

 小泉が口にする「自分の時間や過去は変えられる」というフレーズに途轍(とてつ)もない説得力が宿る根拠はいくつもあるが、筆頭に挙げられるのは、やはり彼女が10代で世に出てきたという事実だろう。以来ずっと、凡夫には見当もつかぬほど巨大な〈世間〉が彼女を凝視してきた。それは一種の社会実験であり、空前の数の参加者による育成シミュレーションゲームのようでもあった。こんなに美しく成長してるぞ、こんなパートナーとくっついたぞ、離れたぞ、おっとこんなに変わったぞ。

◇音楽論で終わらない音楽の話をしよう

 アイドルは願望や期待や共感を託される仕事だ。厄介なことに、ファンの託し方の流儀は多様であり、気ままでもある。理想の恋人としての振る舞いを求められることもあれば、オルターエゴ、つまりそうであったかもしれぬもうひとつの自分の人生を仮託されることもある。アイドルの変化を成長と捉え、我が身になぞらえて共感の度合いを増す者もいれば、不快感をあらわにして離れる者も出てくる。理解や賛同を得られない変貌(メタモルフォーゼ)は、ときに「変節」と曲解され、その先には嫌悪あるいは憎悪(ヘイト)が待っている場合もめずらしくない。

 この仕組みに過敏な者にアイドルの仕事は不向きだが、鈍感すぎてもファンはつかない。錆(さ)びない鋭さとどっしりとした太さの双方を備えていることが必須であり、そのうえで時間を味方につけることができれば理想的。

 じつは「自分の時間や過去は変えられる」というフレーズには前段がある。世の出来事に対して怒りの感情をおぼえたときに、いろんな声の上げ方があっていいのではと話すぼくに対して、小泉はこう答えたのである。

「怒りもそうですが、思っていることを言ったり、声を上げることに対して、すごく否定的に取られることが多いですよね。でもこんなおかしい世の中になって、怒らないほうがおかしい。なのに怒っていると『売れなくなったから左に寄るんだろう』とか書かれたりして、『私、まっすぐ立ってますけど!』と思う(笑)。声を上げる人をしょんぼりさせて、小さくさせようとする意地悪な空気がいまの日本にはあるんじゃない? でも私たちはもう50代だし、言い続けるしかない。命をかけてちゃんと立っていたい。50代は20代や30代よりは経験があるし、立てるだけのメンタルの強さや心の体力もあるでしょう? 大人は思っていることを言い続けて、そういう姿勢をあとから歩いてくる人に見せないと」

 語れば語るほど、知れば知るほど、小泉のことをもっと探(ディグ)りたくなる自分がいた。そんなぼくの気持ちを知ってか知らでか、彼女は対談をこう締めた。「今日は松尾さんと音楽じゃない話ができて、『わたしの歌をうたうための仲間ができた』という気がしました」

 そのとき思ったのである。今こそ小泉今日子と「音楽の話」をすべきタイミングではないか。ただの音楽論で終わるはずのない、「音楽の話」を。

 B&Bでの公開対論が終わってひと月経(た)ったころ、小泉にメールを送った。28年ぶりにぼくのインタビューを受けてくれないだろうか。音楽の話をしたい、と。

 すぐに届いた返信にはこうあった。「〈アイドル〉って言葉について10代の頃に辞書で調べてみました。〈偶像〉という意味だと知り、音楽的に縛りのあるジャンルではないんだと気づきました。その時からあらゆるジャンルの方達とのコラボレーションが始まった気がします」

 念のために記すと、彼女に送ったメールには〈アイドル〉という単語は一度も出てこない。だが、伝わっていた。十分すぎるほどに。むしろ彼女の返信を読むことで、ぼくは自分の潜在的な意図に気づかされたと言ってもいい。 翌月、初めて「株式会社明後日」のオフィスに向かった。

◇演者だからこそ言葉を持っている 

松尾 今日は音楽はもちろん、クリエーション全般についてお伺いしたいと思っています。いま、小泉さんの後ろの本棚に岸惠子さんの自伝が見えます。「演者なのに言葉を持っている」というステレオタイプな見方もあるけれども、僕に言わせると、若い頃、それこそ10代から言葉あふれる現場に身を置き、ある種の英才教育を受けているのが俳優ですよね。自分で独自に言葉をオペレーションできる人が一定数出てくるのは自然なことかもしれません。その中でもいま特に個性豊かに活躍しているのが小泉さんではないかと。(本棚には)沢村貞子さんの本も見えますね。小泉さんと沢村さんのイメージはどこか重なります。僕の書棚にはお二人の本が並んでいるほどで。

小泉 私、沢村さんが好きなんです。家にはもっといっぱいありますよ。エッセイを朗読させてもらったことがあるんです。

松尾 小泉さんは現代の沢村貞子さんや高峰秀子さんではないかという見立てを僕はしています。間違っていますか?

小泉 どうでしょうね。

松尾 久世光彦(くぜてるひこ)さん、向田邦子さんを挟んでみると、よくわかる気がするんですが。

小泉 憧れの人たちではあります。     

★ トップアイドルは、いかにして「わたしの歌」をうたうようになったのか。85年に大評判をとった初主演ドラマのタイトルを借りるなら、『少女に何が起ったか』(なんと初回の脚本は翌86年に逝去した巨星・増村保造監督だったというから驚く)。

 第2回では、時代を選ばない正統派歌謡曲から新しい時代を牽引(けんいん)するダンスミュージックまでをすっぽり呑(の)みこんできた歌手・小泉今日子のルーツとなる両親、ふたりの姉との関係に迫ってみる。<サンデー毎日7月21,28日号(7月9日発売)より。以下次号)

■こいずみ・きょうこ 歌手。俳優。1982年「私の16才」で芸能界デビュー。以降、テレビ、映画、舞台などで活躍。既成のアイドルを超えて、サブカルチャーの象徴的存在に。2015年から代表を務める「株式会社明後日」では舞台制作も手がけ、自前のエンターテインメントを探る。また文筆家として『黄色いマンション  黒い猫』(スイッチ・パブリッシング、第33回講談社エッセイ賞)、『小泉今日子書評集』(中央公論新社)などの著書がある

■まつお・きよし 1968年生まれ。作家・作詞家・作曲家・音楽プロデューサー。平井堅、CHEMISTRY、JUJUらを成功に導き、提供楽曲の累計セールス枚数は3000万枚を超す。日本レコード大賞「大賞」(EXILE「Ti Amo」)など受賞歴多数。著書に、長編小説『永遠の仮眠』、エッセイ集『おれの歌を止めるなージャニーズ問題とエンターテインメントの未来』ほか

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