戦場の極限描きつつユーモラス 伊藤智永
有料記事
『野火』
大岡昇平著
新潮文庫(539円)
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なんだ古臭い戦争文学かと侮ってはならない。グローバリズムとナショナリズムの相克する現代は、誰もが精神的ノマドとなり得る。これは最先端の思考実験のための啓示に満ちた指南書である。
冒頭いきなり主人公の田村一等兵はほおを打たれ、怒鳴られる。「馬鹿やろ。帰れっていわれて、黙って帰ってくる奴があるか。帰るところがありませんって、がんばるんだよ。(病院に)入れてくんなかったら死ぬんだよ。それが今じゃお前のご奉公だ」
こうして部隊からリストラされ、つまり国家の保護から切り離されてフィリピンの山中をさまよう病兵は、死亡率97%の地獄をどう生きのびたか。何よりもこれは上質のサスペンス小説である。次にどうなるか、手に汗握る展開は、文句なしに面白い。そう、戦争は実は楽しい。そこが怖い。
似たような敗残兵が食糧もなく密林を散り散りに逃げ惑えば、昨日までの戦友は、生存を競い合う敵となる。原住民は日本兵を恐れ憎み、本来の敵だった米兵とは出会わない。仲間内で殺すか殺されるか。凄惨(せいさん)なのにどこかユーモラスなサバイバル小説だ。
戦地の特異な経済
戦地では独特の経済が生まれる。タバコの葉とイモが交換され、弱者だった主人公が偶然塩を手に入れると、一躍「市場」の強者となる。駆け引きや没落、成り上がり方は経済小説さながらだ。
軍を離脱した兵は、究極の自由な存在である。だが、完全な自由ほどきつい境遇もない。命がけの孤独の中で、己の判断と思想と精神の力を自問自答し続ける。己とは、人間とは何か。作家はその行動と心理を緻密にたどる。これは究極の哲…
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週刊エコノミスト
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