生殖医療が映し出す「母の壁」 森啓明
有料記事
出産後に女性が経験するキャリア上の不利益が大きい国ほど、出生率が相対的に低い傾向にある。
日本で顕著な女性の「子育て罰」
体外受精などの生殖補助医療は2022年4月以降、公的医療保険の適用対象となり、利用が急増している。それに伴い、生殖補助医療で誕生する子どもの数も増加し、同年には全出生数の約10人に1人に上った。30代後半の母親の約6人に1人、40代前半の約4人に1人が生殖補助医療を利用して出産している(図)。
生殖補助医療の普及によって妊娠に至るまでの選択肢が広がった一方、新たな課題も浮き彫りになった。とりわけ仕事と通院の両立は多くの女性にとって大きな負担となる。体外受精などの治療を受けるには頻繁な通院が必要であり、勤務時間をそのたびに調整することは、フルタイムで働く女性やキャリア形成の途上にある女性にとって困難を伴う。
公的医療保険の適用範囲は拡大したものの、医療費の一部は依然として自分で負担する必要がある。また、高齢になるほど治療の成功率が低下する傾向があることから、治療が長期化し、経済的負担が増す。
これらの課題は治療が成功して妊娠した後も続く。女性が出産や育児の際に直面するさまざまな社会的障壁を「母の壁」という。最近の経済学における実証研究では、出産や育児の負担が女性に偏ることが、男女間の賃金格差を生む主要因の一つと示されている。本稿では、生殖補助医療の普及によって顕在化する「母の壁」に焦点を当て、妊娠・出産が女性のキャリアに及ぼす影響を実証した研究事例を紹介する。
体外受精を伴う治療は、成熟した卵子を体外に取り出し(採卵)、精子と受精させ(媒精)、受精・分割した胚(受精後の卵細胞の発生初期の個体)を子宮に戻す(移植)という手順で進む。胚移植1回当たりの妊娠率は平均20~30%程度だ。
妊娠の成否は、胚の染色体に異常があるかどうか、子宮内環境、移植のタイミングなど、さまざまな要因によって左右される。妊娠の継続や出産までの過程も、偶発的な要因の影響を受ける。
出産1年後に年収3割減
オランダのアムステルダム大学経済学部のエリック・プラグ教授(労働経済学)らは、胚移植を受けた女性が妊娠できたかどうかは偶発的な要因に左右される点に注目した。その上で、妊娠・出産をしたかどうかで生じる働き方の変化を比較することで、妊娠・出産が女性のキャリア形成に与える影響を分析した。分析には、デンマーク保健省が管理する不妊治療データベースと、個人の就業状態や年収などに関する行政記録を結び付けたデータを用いた。
胚移植を受けて出産した女性と、出産に至らなかった女性を比較したところ、前者の平均年齢は後者より約1歳若いものの、学歴や妊娠前の年収、パートナーの年収には大きな差がなかった。この結果は、年齢の影響を除けば、「胚移植による妊娠の成否は偶然だった」という仮説と整合的である。
さらに、両者のうつ病発症率に大きな差はなく、離婚率も出産した女性では短期的には低下するものの、10年後には差がなかった。これらの結果から、胚移植後の出産の有無によって年収に差が生じたならば、出産の影響だけによるものと示唆される。
胚移植後の出産が年収に与える影響を推定した結果、出産1年後の年収は治療開始前と比べて約29%低下し、出産後2~10年目は約12%の低下が続くことが明らかとなった。短期的な年収低下の主な要因は、出産直後に育児休業を取得したことや、労働時間が短くなったことだ。
しかし、母親の労働時間は子どもの成長とともに出産前とほぼ同程度まで回復する。このため、長期的な年収の低下は労働…
残り1279文字(全文2779文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める