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福島第1原発事故で新事実 「防護扉」開放で大量浸水許す 奥山俊宏
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海に面した扉の開放が、原子炉制御中枢への津波直撃を許し、事故を深刻化させた可能性が浮上している。
東日本大震災の発生により、東京電力の福島第1原発に津波が来襲した2011年3月11日午後、海に面した1号機タービン建屋の大物搬入口は、防護扉が開いたままの状態だった。それが原因となって1号機は建屋内に特に大量の海水の浸入を許し、もっとも早く全電源喪失に陥った──。これまで一般には知られていなかったそんな事情が、事故発生5年あまりを経た16年になって東電により把握されていたことが、明らかになった。
津波からの防護にもある程度は効果を発揮したであろう頑健な扉が開いていただけではない。大物搬入口の内側から、原子炉制御の中枢を担うコントロール建屋地下の直流電源までは通路になっており、遮る壁も扉もなく、水が「スッと入っていく」ような配置だった。このため1号機はわずか1分ほどで、水位など原子炉内の状態を把握できなくなり、冷却装置の起動も不可能になった。これが1号機爆発の原因となり、そして3号機、2号機、4号機へと続く事故連鎖の起点となった。
もし仮に、浸入した水の量が実際より少なければ、制御用の直流電源(バッテリー)を維持できて、その後の炉心溶融や放射能放出をすべて回避できた可能性がある。実際、福島県内で震災発生時に運転中だった福島第1原発1~3号機、福島第2原発1~4号機のうち、3月11日中に全電源を喪失して制御不能に陥ったのは、福島第1の1号機とそれに隣接する2号機の二つの原子炉だけであり、同じ福島第1でも3号機は、直流電源が生き残って、3月12日まで炉の制御が可能だった。
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新潟県の検証で判明
この防護扉開放の事実は、事故発生後も長年、その現場にいた人を除くと、東電社内でも知られていなかった。政府、国会がそれぞれ設けた事故調査委員会など各種の報告書、そして東電自身の事故調査報告書にもその旨の記載はない。新潟県による事故検証が続けられる中で、地震の揺れによって電源を喪失したのではないかとの疑いを指摘され、東電は、この疑いを晴らす目的で改めて経緯を精査し、防護扉開放の事実を把握し、16年、同県の検証の場でこの事実を報告した。報道機関や一般の人にそれと分かる形で積極的に発表したことはこれまでなかった。
幅7メートル、高さ12メートルの開口部
大物搬入口は、資機材を建屋内に出入りさせるために設けられた幅7メートル、高さ12メートルの大きな開口部で、福島第1原発では原子炉よりも太平洋に近いところにあり、海に面している。テロリストが車両を使って力ずくで突入しようとする場合のような物理的な攻撃から核物質を防護する目的で、観音開き型の鉄製、頑丈な防護扉が外側にあり、内側にロール型の薄いシャッターがある二重構造となっている。防護扉はシャッターの全面を覆っているのではなく、人間の背丈の2~3倍の高さまでしかないが、その高さの値は核物質防護上の理由で公表されていない。
新潟県に示された東電の資料や東電の説明によれば、1号機では震災発生当時、防護扉は作業のため開放しており、そのまま作業員は避難し、開放状態が維持された。他の号機と比較して1号機の電源喪失が早いのは、大物搬入口の防護扉が開放されていたために、大量の津波や漂流物がシャッターを「吹き飛ばして浸入」し、建屋内に大量の海水が流入してしまったことが原因と推定しているという。1号機の建屋1階には1メートルほどの高さの浸水痕があったが、防護扉が閉まっていた2号機、3号機にはそうした浸水痕がなく、水の入り方に違いがあった。東電によれば、「防護扉が閉まっていれば津波の浸入をある程度抑制できたと考えられる」という。
東電の技術者の説明によれば、大物搬入口からタービン建屋に入るとすぐ目の前に、非常用交流電源の高圧配電盤(メタクラ)が2機あり、それらが真っ先に水をかぶり、このため、非常用発電機から来ていた交流電源は早々に失われ、全交流電源喪失となった。炉の制御に用いられる直流電源の充電器や配電盤(主母線盤)は、大物搬入口から110メートルあまり奥にあるコントロール建屋の地下1階にあったが、その間はL字型の通路になっており、「津波の浸入を妨げるものがないため、早い時間帯に(直流電源を)喪失した」と推定しているという。
直流電源は、原子炉の状態を監視し、冷却ポンプなど種々の機器を制御室から遠隔操作するのに必須の神経系を担う中枢の機器だが、東電の技術者によると「スッと(津波の水が)入ってくるような場所」にあった。取材に対する東電の説明によると、その間に階段があったが、そこに扉や壁はなかった。
2号機にも流れ込む
さらに、筆者の推測によれば、1号機建屋に浸入した水が隣の2号機の建屋に入り込み、2号機の直流電源の機能を失わせた可能性が高い。1号機の直流電源がある区域と2号機の直流電源がある区域は地下で隣り合わせとなっている上に、1号機のその床面の高さに比べて2号機のその床面のほうが3メートル低いところにあるからだ。両区域の間には壁があるものの、扉があって、それに水密性はなかった。水は低いところに向かって流れるため、1号機の直流電源に被害を及ぼした水の相当部分はこの扉を介して2号機の直流電源の区域に流れ落ちたとみられる。このようなシナリオならば、1号機の直流電源がいち早く15時37分にいったん喪失したものの、1~3時間後にまだら状に一部復活した経緯、さらに、2号機の直流電源が比較的遅い15時50分過ぎまで生きたものの喪失後は二度と復活しなかった経緯とよく符合する。
震災発生時に防護扉を開けていた理由について、東電は「作業のため」と説明している。1号機の当直員引き継ぎ日誌の3月11日午前の欄に「大物搬入口電動化工事」と記入されており、この工事が午後まで続いて、防護扉が開いていた可能性がある。
取材に対する東電の説明によると、当時、津波警報発令時に防護扉を閉じなければならないとの明文化されたルールはなかった。
想…
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週刊エコノミスト
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