イスラエル与党リクードの来歴と党首ネタニヤフ氏の人物像とは 臼杵陽
有料記事
イスラム組織ハマスへの苛烈な報復を続けるイスラエル。与党で右翼政党リクードが掲げる「大イスラエル主義」が非妥協的な姿勢の背景にある。
>>特集「絶望のガザ」はこちら
パレスチナ自治区ガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスが10月7日、イスラエル市民に対して大規模なテロ攻撃を行った。多数のイスラエル一般市民の死傷者が出て、さらに多数の人がハマスによって拉致された。今回の事件では、ハマスがイスラエルの国防システムの間隙(かんげき)を縫うかのように攻撃を行い、350人ともいわれる国民が犠牲になった。このような数の犠牲者数はイスラエル建国以来初めてであり、イスラエル国民にとっては、ホロコーストの悪夢を思い出させる事態でもある。当然ながら、その報復はイスラエル国民の大半が当然だと考えている。
今回の事態を受けてイスラエルのネタニヤフ首相は緊急挙国一致内閣を結成した。ネタニヤフ首相はリクード党の党首でもあるが、リクード党はどんな政党であろうか。一言で要約すれば「現実的右翼」ということになろう。リクード党はイスラエル建国史において「修正主義シオニズム」と呼ばれる政治的潮流から生まれた。この潮流はゼェヴ・ウラジーミル・ジャボティンスキー(1880~1940年)という旧ロシア帝国の黒海沿岸の都市オデッサで生まれた人物に代表される。彼はユダヤ人の土地を守るために「鉄壁」を建設し、ヨルダン川の両岸をユダヤ人国家の領土とすべきだとする「大イスラエル主義」を唱えた。と同時に、「イルグン・ツヴァイ・レウミ(民族軍事組織)」という民兵組織を1930年代初めに設立して武力でその政治目的を達成しようとした。
労働党の凋落
他方、労働組合連合(ヒスタドルートと呼ばれる)を中心に社会主義シオニズムを掲げる労働党が、イギリスによるパレスチナ委任統治期(1922~1948年)からイスラエル建国を経て77年にリクード党に政権を奪われるまでイスラエルというユダヤ人国家を率いた。労働党は現在では見る影もなく凋落(ちょうらく)した(表)。というのも、ヒスタドルートは単なる労働組合ではなく、その傘下に銀行、保険、建設、運輸、医療などの分野で数多くの事業体があり、労働党はそのような社会経済体制で成り立っていたからである。
しかし、そのような労働党の社会経済体制の恩恵を受けずに不満をもっていたのが、建国後アラブ・イスラエル紛争の激化とともに1950年代以降に中東・イスラム世界から追い出された相対的に貧しいユダヤ人であった。そんな社会の底辺を支えていた人々が、メナヘム・ベギン氏に率いられていたリクード党を支持し、同党は77年に政権を獲得した。
ベギン首相は英委任統治期には「テロリスト」として指名手配された過去をもつ人物であったが、そんな政治家がイスラエル首相に就任し、その上79年にはエジプトと平和条約を締結した。そ…
残り1428文字(全文2628文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める