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教養・歴史 よみがえる石川経夫

「公正な分配」を問いつづけた51年の生涯 佐々木実

 51歳の若さで世を去った経済学者がいた。石川経夫──主流派にあらがい、社会正義に基づく経済学の再構築に挑んだが、志半ばで倒れた。類まれな能力、全身全霊で学問に打ち込む姿は今も語り草となっている。

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 米国の経済学界で華々しく活躍していた宇沢弘文が、突如、帰国したことは日本の経済学界にとっても“事件”だった。シカゴ大学の教授だった宇沢が、助教授に降格して東京大学経済学部に移籍したのは1968年4月のことである。帰国を促したのは、ベトナム戦争だった。

宇沢弘文の経済学批判

 正確にいえば、日本の経済学界にとっては二重の意味で“事件”となった。一つはもちろん、宇沢が最新の理論を携えて帰ってきたこと。経済成長理論、投資理論、一般均衡理論など広範な領野で世界的な業績を上げた宇沢の登場は、米国の最新理論の直輸入ともいえた。

 ところが、しばらくすると宇沢は、主流派の経済学、つまり新古典派経済理論を激しく批判するようになる。まるで自己批判のようでもあったが、返す刀で、米国の経済学界をも批判し始めた。“事件”の2番目の意味が、宇沢による主流派経済学批判である。

 米国で新古典派経済理論の発展に貢献した宇沢を「前期宇沢」と呼ぶなら、主流派の均衡理論に対抗すべく不均衡動学理論に取り組み、社会的共通資本の経済学を構築した宇沢は「後期宇沢」である。ただし、帰国直後は「後期宇沢」はまだ潜伏状態にあった。

 外には「前期宇沢」の顔を見せつつ、内に「後期宇沢」を秘める。そんな宇沢の薫陶を受けた東京大学経済学部の学生が4人いた。岩井克人、石川経夫、奥野正寛、篠原総一。なかでも岩井、石川、奥野は東京教育大学(現筑波大学)付属高校からの同級生で、のちに3人は、宇沢や小宮隆太郎、根岸隆らの後を継ぐ形で、教授として東大経済学部の屋台骨を支えることになる。

欠けたピース

 私は、評伝『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』(講談社)を著す過程で、宇沢と関係した人たちから話を聞いた。帰国直後の宇沢を知るべく、岩井、奥野、篠原にも取材して貴重な証言を得ることができた。しかし、石川だけは話を聞くことがかなわなかった。51歳の若さで世を去っていたからだ。

 私にとって、石川経夫は「欠けたピース」である。評伝を出版したあとも、「欠けたピース」がずっと気にかかっていた。なぜなら、宇沢弘文が石川経夫を高く評価していたことを知っていたからだ。

 宇沢と石川とでは、性格は対照的といっていいほど違う。取り組んだ研究の内容も異なる。いったい石川の何をそれほど評価していたのだろうか。そのヒントが、宇沢が著した『日本の教育を考える』(岩波新書)のはしがきに記されている。

〈本書はもともと、畏友(いゆう)石川経夫君が執筆される予定でしたが、よんどころない事情で私が代わって執筆することになったものです。石川君は日本を代表する経済学者の一人で、既成の新古典派経済学を超えて、社会正義、公正、平等の視点から経済学の新しい展開を主導してきました。石川君にとって、教育の経済学は、この経済学の新しい展開の過程でもっとも中心的な役割をはたすものです〉

 本来なら、『日本の教育を考える』は石川が執筆するはずだった。「よんどころない事情」とは、石川が病に倒れたことを指している。最初に倒れたのは96年3月で、原因は心臓発作だった。まだ静養が十分とはいえないうちに無理を押して大学の職務に復帰すると、97年3月に再び倒れた。発作時に服用しなければならないニトログリセリンが手元になかったという不運が重なり、意識が戻ることもないまま、石川は98年6月26日に息を引き取った。

社会正義、公正、平等

 宇沢は、石川の社会復帰が絶望視されるなかで、『日本の教育を考える』を執筆していた。出版は石川が亡くなった直後である。宇沢は頭(こうべ)を垂れるような筆致で、〈門前の小僧習わぬ経を読むという謗(そし)りをあえて甘受するつもりでこの書物を書きました〉と、はしがきにつづっている。

 追悼の意を込めた短い文章で宇沢は、石川経夫という経済学者の本質を端的に語っていた。「社会正義、公正、平等の視点から経済学の新しい展開」を先頭に立って担っていたこと。「既成の新古典派経済学を超えて」という宇沢の表現には、主流派経済学が社会正義、公正、平等という主題を等閑に付していることへの批判が込められている。石川は、それを乗り越え、新たな経済学を展開していたという評価である。

 自他ともに認める「石川経夫の一番弟子」の玄田有史(東京大学社会科学研究所教授で東大副学長)が言う。

〈石川先生は、その51年という生涯を通じて、社会における公正な分配のあり方について、模索を続けた経済学者だった。格差や不平等の所在に関する実態解明とその理論的検討や、それらに根源的な影響を持つ労働市場の分断化について、思索を続けてきた〉(『人間に格はない』(ミネルヴァ書房)

ピケティに先行した格差研究

 経済学になじみがない人には、理解しがたいかもしれない。事実として、経済学の主流である新古典派経済学では、「公正な分配」というテーマはタブーと呼んでもいいほど、脇へと追いやられている。タブーを破ったことで知られているのが、『21世紀の資本』を著したフランスの経済学者トマ・ピ…

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