バブル秘史 波乱の証券業界① 猛烈営業の野村証券に負けるな
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平成の証券業界は、バブルの絶頂から突き落とされ、波乱と変革の時代だった。
証券会社と業界団体の立場から、その盛衰を見てきた筆者が、知られざる証券史を語る。
1980年代は、証券界に対する大蔵省の権限が絶大で、はしの上げ下げまで指示された。この大蔵省も証券界のリーダーである野村証券には、一目置いていたように思う。大蔵省の初代証券局長、松井直行が「野村直行」と揶揄(やゆ)されたように、何かというと野村証券の意向を確認してから行動を起こしていたように見えた。
野村証券は、山一証券の「法人の山一」に対して、「調査の野村、情報の野村」といわれていた。豊富な情報力と正確かつ敏速な分析力を駆使し、それを営業にも活用していた。野村証券の法人担当者が事業会社を訪問するときに、野村総研のエコノミストが同伴していたのを思い出す。さらに、「ノルマ証券」といわれる厳しさの中で、徹底的な営業力で経営基盤を築いていた。注文伝票を「ペロ」と呼び、ペロを切れない営業マンは一人前として認められなかった。
私は、大和証券時代に、野村、山一、日興、大和の4社の担当者が定期的に集まる会合に出席していた。一つは、債券引受部の会合であり、もう一つは、大蔵省担当者(通称、MOF(モフ)担)の4社会である。会合を通して感じた各社の印象は、まず、野村の社員は、やり手が多いなぁということだった。山一はかつての名門だけあって優秀な人材が豊富で、すぐに心打ち解ける人が多かった。日興と大和は、似たり寄ったりで、平均的証券マンの集まりのように思われた。
ただ、野村は権謀術数にたけた社員が多いようにも思われた。証券界のリーダーである野村には優秀な新人が大勢入社してくるので、何年かすると社内競争のなかで、性格も変わってくるのかなぁと感じたこともあった。
激しい主幹事の獲得競争
一方で、勉学を重んじる社風も感じた。私が大和証券に入社した1年目に野村証券のオフィスを訪ねたことがあった。同じ債券引受部の新入社員の机の上には、経済学の本が置かれていた。「上司から、まず、勉強しろ」といわれていると言っていた。
私は、大和証券の債券引受部の新人として、書類発送の宛名書きなどのいわゆる雑用に明け暮れていて、こんなことをするために就職したのではないのにと思ったと同時に、野村証券との差にがくぜんとした記憶がある。
証券会社にとって、事業会社が増資や社債・転換社債を発行するときに主幹事を獲得するのは最重要業務の一つである。
証券業界では、かつては「法人の山一」といわれたように、山一証券が圧倒的シェアを誇っていた。その牙城を崩していったのが野村であり、…
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週刊エコノミスト
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