バブル秘史 波乱の証券業界② 証券会社を苦しめた損失補てんの闇
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企業の資金を預かって運用し、損失が出たらその穴埋めをする。
業界のあうんの呼吸で行われていた行為が公になり、大問題となった。
1991(平成3)年に損失補てん問題という衝撃が、証券界に走った。大手4社をはじめとした多くの証券会社が、株価の急落で損失を被った大企業などの大口顧客に対してその損失を補てんしていたことが発覚した。
88年9月から90年3月までの間に証券界全体が行った損失補てん額は1700億円に達した。野村証券・田淵節也、大和証券・同前雅弘、日興証券・岩崎琢弥、山一証券・行平次雄などの大手4社の会長、社長が国会に証人として喚問され、テレビ放映された。
損失補てんとは、どんな事件だったのだろうか。
株式市場は90年に入ると下落に転じ、バブルが崩壊した。このような環境下で、証券会社は、自らが管理運用する「特定金銭信託」、いわゆる「営業特金」を企業から預かっていた。通常の「特定金銭信託」では、顧客(企業)が信託財産の運用を指示するが、「営業特金」では、顧客である企業は金を出すだけで、運用はすべて証券会社が行っていた。
さらに事態を悪くしたのは、営業特金には「にぎり」といって、実質的な「利回り保証」がついていたことだった。わかりやすく言うと、「営業特金」というのは、「顧客の資金を証券会社が、ある一定の金利を実質的に保証して運用する仕組み」だった。従って、財テクをしたい企業からの注文が後を絶たなかった。本業の利益よりも営業特金の運用益の方が大きい企業も珍しくなかった。このような「財テク」ができない財務担当者は社内批判を浴びたりした。
営業特金のそもそもの発端は、85年の銀行の大口定期預金の自由化にあった。自由化された銀行の大口定期預金の単位は、最初は10億円だったが、その後、段階的に引き下げられ、89年には1000万円になった。それに慌てたのが証券会社だった。
資金を銀行に持っていかれることに危機感を抱いた証券会社は、「利回り保証」の営業特金に走った。言葉を変えれば、「営業特金」は、証券会社と事業会社が締結したある種の「大口預金契約」だったのだ。
しかし、「営業特金」は、銀行の大口定期預金の金利を意識した無理な利回り、例えば、年率7%の運用利回りを約束したりした。そのため、株式市場の動向によっては、損失が大きくなり、損失補てんへとつながっていったのである。
しかも中身は単純ではなかった。一例をあげれば、証券会社と資金提供企業との間の約束のやり方も千差万別だった。利回り保証は禁じられていたので、証券会社の事業法人部の担当者の口約束であったり、名刺の裏書だったりした場合もあった。
また、証券会社や事業会社がそれを明確にしないまま、第三者や海外に株式を移す、「飛ばし」も行われるようになった。例えば、営業特金で運用している株式に含み損が発生した場合に、その損を隠蔽(いんぺい)するために、決算期の異なる他企業に一時的に保有してもらうのだ。これがいわゆる「飛ばし」である。
大蔵省との折衝
私も損失補てん問題という暗雲の真っただ中にいた一人だった。89年11月ごろ大和証券の…
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週刊エコノミスト
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