バブル秘史 波乱の証券業界③ 大蔵省の虎の尾を踏んだ野村証券の「小田淵」
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「損失補てんは大蔵省の了承のもと」という発言に、業界は凍りついた。
大蔵省の虎の尾を踏んだからだ。
大蔵省は、1985年に野村証券の社長になった田淵義久に対してあまりよい感情を持っていなかったようにみえた。前社長の田淵節也と区別するために、業界では、節也は大田淵(おおたぶち)、義久は小田淵(こたぶち)と呼ばれていた。
銀行と証券の垣根問題、いわゆる証券取引法の「65条問題」において、大蔵省の顔色をうかがう証券界の経営者が多かった中で、小田淵だけは、証券界を代表して堂々とした論陣を張ってくれていた。
大蔵省は、銀行局と証券局にまたがるこの問題を無難におさめたいと強く望んでいた。一方、野村証券は、米モルガン・ギャランティ・トラスト銀行と共同で信託銀行を設立する構想を持っていた。大蔵省の反対でこの構想は頓挫したが、実現すれば日本の金融業界に新風を巻き起こす出来事だった。
以来、大蔵省、特に銀行局の野村証券に対する感情的なしこりが残り、銀行局の幹部が、新聞記者に「野村証券だけは絶対に許さない」とささやいたといわれた。当時の事務次官も「野村証券は、少しやりすぎだなあ」と言ったと伝えられた。
野村証券の取締役会での小田淵の大蔵批判発言も、翌日には、大蔵省幹部の耳に入っていた。例えば、小田淵が取締役会で「君たちは何でそんなに大蔵省にビビっているんだ。なにも大蔵省に飯を食わせてもらっているわけではないだろう……」などの発言も、翌日には大蔵省証券局幹部の耳に入っていたといわれた。
そのような中で、あの事件が起きた。
それは、相撲界の大横綱・千代の富士が引退した年でもあった。その91年6月27日の野村証券の株主総会での株主との質疑応答で、小田淵の「損失補てんは大蔵省の了承のもとでやっていた」との発言が飛び出した。大蔵省が了承していたかどうかは別として、公の場でそのような発言をすることの影響は大きかった。
その模様をテレビで見ていた当時の橋本龍太郎蔵相は激怒した、と隣の席に座っていた篠沢恭助大蔵省大臣官房長(のちの事務次官)が語っていたのを思い出す。
そのようなこともあり、小田淵は、退任に追いやられた。当時、東急電鉄株の暴力団問題なども表面化し、日興証券の岩崎琢弥社長と同時に辞任した。
優秀な経営者
野村証券の幹部の中には、野村証券の歴代の社長の中で、一番経営者として優れた資質を持っていたのが、小田淵だったという人が何人もいる。小田淵は、役員になる前から、「将来の社長候補」といわれていた。社長としての長期ビジョンも描け、85年に社長に就任したときに、まず考えたのが国際化であり、海外業務の収益化であった。
海外拠点の中心である米国野村を高収益化するために小田淵が目をつけたのが、高梨勝也だった。高梨は、85年の暮れにニューヨークに赴任してきた。当時、私は、アメリカ大和証券の社長として、ニューヨークに駐在していたが、やり手のいやな競争相手が来たなあと感じたことを覚えている。
小田淵は、なぜ海外業務がもうからないのかに大きな疑問を抱いていたといわれる。高梨に、ニューヨークに行って実情を調…
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週刊エコノミスト
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