バブル秘史 波乱の証券業界④ 意外だった大和証券社長の就任と辞任
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大和証券の社長人事は予想外だったが、損失補てん問題ではやはり無傷ではいられなかった。
大和証券の社長交代は、6月の定時株主総会後の取締役会で行われるのが通例だったが、1989年の社長交代は異例だった。その年は、名古屋地裁で争われていたある裁判で、当時の土井定包社長の名前が関係者の一人として年末に出るかもしれないとの情報がもたらされ、土井社長はそれを気にして、急きょ、10月に退任することになった。
後任の社長は、ほとんどの人が奥本英一朗副社長が昇格するものと予想していた。私は当時、社長室長として土井社長に仕えていたので、いろいろな経験をした。同年8月の某日、土井社長に呼ばれて社長室に行くと、机の上にA3の紙に書かれた組織図があった。それは、大和証券のシンクタンクである大和総研の組織図で、なんと新社長の欄に「奥本英一朗」という名前が印刷されていたのだ。私も、土井社長の後任は奥本副社長と予想していた一人なので、名前を見てビックリした。同時に、どうしてこのような秘密の人事を私の見えるところにおいていたのか不思議に思った。
社長人事は蓋(ふた)を開けると意外な人選だった。昇格したのは、国際畑の同前雅弘副社長であった。
そのような中で、ある日、土井社長が独り言のように私につぶやいた。
「後任社長を奥本にしようと思ったが、千野宜時会長が首を縦に振らないんだよ」
そのような大事な秘め事を目的もなく口にする土井社長ではなかったので驚くと同時に、なぜと思った。つぶやきの真の理由は、今となっては永遠に没してしまったが、私なりに解釈すると、私から実力者である奥本氏に「土井社長は、本当はあなたを社長にしようと考えていたのですよ」と伝えてほしかったのではないかと思う。それによって、奥本氏の気分を和らげ、経営上も役に立つと考えていたのではなかろうか。
大和総研の設立
ちなみに、大和総研の設立の命を受けたのは私だった。89年のある日、土井社長から呼び出された。「今度、大和証券経済研究所と大和コンピューターサービス、大和システムサービスを統合して、野村証券の野村総合研究所のような会社をつくりたいので、準備をするように」との指示があった。
総合研究所を創設するような案件は大蔵省がからむので、MOF(モフ)担(大蔵省担当)の私に下命したのだと思った。私は早速、準備にとりかかった。まず、新会社の社名を決めなければならない。当時、大和銀行の子会社に「大和銀総合研究所」が存在していた。新設会社の社名は、単純に「大和総研」がよいと思っていたが、大和銀行の了解を得るのが礼儀と思い、担当役員に会いに行った。
私はスムーズにことを運びたいと思っていたので一計を案じ、最初は「大和総合研究所」にしたいと説明した。大和銀行側の反応はやはり「大和銀総合研究所と一字違いでまぎらわしい」というもので、いい顔をしなかった。「それでは検討し直します」との言葉を残してその日は帰社し、結局、当初考えていた「大和総研」の社名にすることで大和銀行の了解を取り付けることができた。
次は、英文名をどうするか。候補は二つだった。「Dai…
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