バブル秘史 波乱の証券業界⑤ 断れなかった証団協の委員長 大蔵とのパイプ作りに奔走
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波乱の証券業界/5 断れなかった証団協の委員長
大和証券の常務から証券団体協議会へ転出することになり、バブルの後始末に業界の代表として奔走することになった。
人生には、何の縁があるかわからない。1991年4月のある日の朝、当時の大和証券の同前雅弘社長から呼び出された。社長の口から出た言葉は、私にとって衝撃的なものだった。
社長「今度、証券団体協議会(証団協)の常任委員長を大和証券から出すことになった。君に行ってもらいたいと考えている」
即座に、「いやです」と言いたいところだったがそれは我慢した。私は、大和証券に入社したときから、将来は副社長にはなりたいと思い、懸命に頑張ってきた。大企業の場合、社長は運の要因が大きい。一人の社長が10年もやれば、同年代の役員は社長にはなれない。大和証券には、当時、4人の副社長がいた。そのポストなら努力次第で到達できると思っていた。当時、常務になっていた私は懸命の抵抗を試みた。
恩田「当社には、証団協の委員長として私よりふさわしい役員がたくさんいるのではないでしょうか」。候補者の一人として、ある専務の名前を挙げたりした。
社長「いや、君が一番適任だと思って決めたんだ」
必死の抵抗を試みたが、私に残された選択肢は「証団協に行くか」「大和の役員を辞めるか」の二者択一で、大和証券の役員として残れないことは理解できた。
突然のことだったので、辞めたとしても就職先があるわけではない。社長と話しているうちに私の心は徐々に固まっていった。「とりあえず、証団協に行って、1年以内に新しい勤め先を探して辞めよう」だった。
恩田 「分かりました。証団協に行かせていただきます」
同前社長の安堵(あんど)の笑顔を横目に、私は、うなだれながら社長室を後にした。
私は、91年6月、証団協の常任委員長に就任した。
証団協は、証券業会のシンクタンク的存在の団体で、委員長は世間からみると、決して悪いポストではなかった。今から四半世紀以上前なのに、年俸は2000万円を超えていたし、個室、秘書、車も付いていた。当時、私はJR総武線の幕張駅の近くに住んでいたが、朝は自宅まで車が迎えにきてくれるし、帰途も車である。特に雨の早朝の出勤が車の中で新聞を読みながらできるのはうれしかった。
しかし、自分で選択したポストではなかったので、委員長に就任後、別のポストを探し始めた。着任してからしばらくした頃に、魅力的なオファーが舞い込んだ。
ジャパンシステムという上場会社のオーナーの安岡彰一社長から、「うちにこないか」と誘われたのだ。副社長として年俸も証団協の委員長を上回り、しかも移籍金として5000万円をくれるという断ることなどとうてい考えられない魅力的な申し出だった。
当時、私もバブルでやけどをした一人だった。大手都市銀行から、3000万円借りてゴルフ会員権を買ったりしていた。しかし、バブルが崩壊すると、ゴルフ場の会員券の価格も下落していった。多額の借金をかかえ、窮地に追い込まれていた私にとって、移籍支度金の5000万円も含めると夢のような金額だった。
早速、大和証券の土井定包…
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週刊エコノミスト
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