バブル秘史 波乱の証券業界⑥ 株価PKOを依頼 大蔵省小川是証券局長の意外な返事とは
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株価暴落で証券業界はパニックになった。公的資金で支えるように要望したが、簡単ではなかった。
1992年はバルセロナ五輪の女子競泳200メートル平泳ぎで、14歳の岩崎恭子が金メダルを取り、「今まで生きてきた中で一番幸せです」と語ったことで記憶に新しい人も多いだろう。その年、日経平均株価は下落を続け、3月に2万円の大台を割り込み、6月には1万6000円を切った。銀行株も軒並み下落し、「日本経済の警戒ライン」、すなわち、銀行の株式含み益が完全に吹き飛ぶことを意味する1万5000円ラインをも割り込む状況だった。
政府、大蔵省も重要な政策として、証券市場の立て直しと、活性化に真剣に向き合うようになった。この重大局面に、証券局長に就任したのが小川是(ただし)である。従来の省内における証券局の序列(主計局を筆頭に上から5、6番目)からはとても考えられない大物官僚、将来の次官候補と目されていたエースの登板だった。
小川を証券局長に抜てきしたのは、保田博と尾崎護の新旧事務次官だったと言われている。当時、証券市場の活性化や、証券スキャンダルとして巷間(こうかん)をにぎわせていた野村証券や大和証券などの損失補てん問題を処理できるのは、構想力、実務能力にたけ、それまでにも難局に対処してきた実績を持つ総務審議官の小川しかいないと2人の新旧次官が話し合って決めたのだと言われた。
また、同時に証券局総務課長となった林正和も将来を嘱望されたエリート官僚だった。林も、その後2003年に財務次官に就任したことを考えると、当時の大蔵省が証券行政をいかに重視したかがわかる。
最初は否定的な反応
私の小川に対する第一印象は、「バランスのとれた理解力抜群の聡明なエリート」だった。小川は理論家で清廉である一方、人間的な温かみ、深みのある「情と理」を併せ持った人柄だった。
小川は62年に入省、消費税導入に取り組んだ竹下登内閣の首相秘書官を務め、証券局長以降も、主税局長、国税庁長官を経て、大蔵次官に昇進している。
その小川証券局長に「PKO」の発動を依頼に行った。当時、92年6月に自衛隊の海外派遣を認める「PKO(ピース・キーピング・オペレーション)協力法」が成立した。同年、カンボジアPKOで、初めて自衛隊が海外に派遣された。証券界では、そのPKOの「P」である「ピース=平和」を「プライス=株価」と置き換えて「公的資金による株価維持活動」という意味で、PKOという言葉を使っていた。
当時の証券界は危機感があふれ、このままではどうなるか分からない、何とか公的資金で株価を支えてほしいという要望が噴き出していた。とにかく大蔵省にPKOを強力に要請すべきだということになり、証券団体協議会の委員長だった私が小川局長のところに行った。私の依頼に対し、理論的な考え方を重視する小川局長の最初の反応は否定的だった。話し合いが一段落したときに、私は思い切って次のように持ち掛けた。
恩田「それでは株式市場活性化のために、小川局長が個人で株式投資をしてくれませんか。証券市場の番人である証券局長が株式を購入したことが世間に知れれ…
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週刊エコノミスト
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