「経営者と社員」コミュニケーションの齟齬が招いた悲劇 明智光秀
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明智光秀 四国攻め外された焦りが“本能寺”へ 戦国の案内人 柴裕之
「本能寺の変」では、織田信長に油断があったのか。
柴 当時、織田政権の勢力範囲は、今の近畿(畿内)、東海、関東甲信、北陸、中国地方にまで広がっていて、畿内は敵対勢力がなく安泰だった。だから信長が護衛の人数を少なくしたのも間違いではない。護衛を少なくしたのは、政治パフォーマンスの意味もあったはずだ。自分が天下人となって、畿内はこれだけ安全になったというアピールだ。
それよりも重要なのは、中央の畿内の軍事司令官が惟任(これとう)(明智)光秀だったこと。信長が天下に立つ状況の中で、最重要の畿内の軍事司令官に光秀を任命している。光秀をよほど信頼していたということだ。
信頼されていたのに、なぜ光秀は謀反を。
柴 光秀は当時、織田政権の四国対策を巡る政治路線対立で、窮地に陥っていた。
四国は畿内に近いため、織田政権の四国対策は、畿内の軍事司令官である光秀が構築した「光秀=長宗我部ライン」を軸に進めらていた。
ところが、長宗我部と敵対する三好氏が織田氏に従属すると、劣勢だった三好勢は信長の三男・信孝を養子に迎えたり、秀吉に協力を求めるなど、勢力を盛り返そうとした。その結果、信長は四国対策を「光秀=長宗我部ライン」から「信孝・秀吉=三好ライン」に転換した。光秀は織田政権内の勢力争いに敗れ、四国対策の担当から“外された”格好になった。これが…
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週刊エコノミスト
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