インフレファイター 政治や世論に迎合せず ボルカー氏の残した教訓=山本謙三
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米国の物価が、1980年代前半以来の高騰を示している。「インフレファイター」として知られるポール・ボルカー氏が米連邦準備制度理事会(FRB)の議長に就任した79年当時、FRBは信用失墜の危機にあった。根強い物価上昇圧力に加え、第2次石油危機の勃発を背景に、消費者物価上昇率は前年同月比で2ケタ台に達していた。人々は、FRBの物価コントロールの能力に疑問を抱き始めていた。
自著の『ボルカー回顧録』(クリスティン・ハーパー氏との共著)によると、次期議長候補としてカーター大統領(当時)に呼ばれたボルカー氏は、席上、自身の考えを述べた。FRBの独立性に強い思い入れがあること、インフレに正面から取り組む必要があること、前任の議長よりも引き締め気味の金融政策を提唱するの3点だった。
79年8月の議長就任後、早速2度にわたり公定歩合を引き上げたが、物価上昇の勢いは衰えなかった。そこで同年10月6日夜、土曜日だったことから後に「サタデーナイト・スペシャル」と呼ばれる緊急の政策パッケージを決定。日々の金融調節上の目標を「短期金利(フェデラルファンド・レート=FF金利)」から「量的指標」に切り替えた。具体的には、銀行がFRBに預ける当座預金の一部の残高(非借り入れ準備)を対象にした。この結果、短期金利は自由に変動するようになり、80年末には一時20%を超えた。
量的指標への変更は一部にマネタリズム(貨幣量を重視する経済学派)の理論の実践と受け止められたが、実態は「実務家の知恵」だった。短期金利に注目が集まりすぎることで、世の中の抵抗が強まることを危惧し、金利引き上げの方便として「日々のコントロールの対象は非借り入れ準備とし、短期金利は市場の需給に委ねる」とした。3年後には再び方式を改め、その後タ…
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週刊エコノミスト
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