《ウクライナ戦争で知る歴史・経済・文学》プーチンから見たウクライナ戦争の原因=東郷和彦
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プーチンの論理 強いロシアの復活を目指し 絶対譲れなかった「二つの条件」=東郷和彦
2月24日、ウクライナ全土への攻撃を開始したロシアのプーチン大統領の行動は、西側を中心とする多くの国から激しい批判を浴びている。筆者もまた、この武力行動に打ちひしがれた。
一刻も早い停戦のためには、ここに至ったプーチン氏の見方を見極めなければならない。
プーチン氏は、1999年12月31日、20世紀が21世紀に転換するときに大統領代行職をエリツィン大統領から引き継いだ。ソ連邦崩壊とロシア連邦創立から10年。大統領就任の直前、『千年紀のはざまにおいて』という論文をロシア紙に掲載している。「ソ連邦崩壊後ロシアは、三等国の情けない国になった。ロシア国民はそういう情けない国に甘んじる国民ではない。強くて安定し豊かで、かつ多様性のある国をつくる」と自らの使命を述べている。
最初の12年(大統領2期、首相1期)の「プーチンⅠ」で、石油価格の高騰に助けられ経済が順調に発展、大統領への権力集中による国家統治の安定性を確保。対外的には、第1期は、ジョージ・W・ブッシュ(ブッシュ息子)米大統領との蜜月期を過ごすが、やがて西側との緊張関係が発生し、2007年のミュンヘンでの強硬演説、08年、北大西洋条約機構(NATO)のブカレスト会合で、ウクライナとグルジア(ジョージア)のNATO加盟が原則了承されたことに猛烈に反発、ロシアの安全保障のために、それだけは許せないことを明示した。
欧州新秩序を目的に
12年に始まる「プーチンⅡ」の目的は、豊かで安定したロシアを欧州の中核に回帰させ、相互尊敬をもち、自らもその精神的支柱の一つになる欧州新秩序をつくることにあった。NATOとの間でも、冷戦終了時にロシアが弱く小さくなった時に受け入れざるを得なかった秩序を変え、少なくとも敵対関係のない、ロシアの力にふさわしい新関係をつくることを目的とした。
ロシアの立場からすれば、この新秩序でウクライナには絶対に守ってもらわねばならないことが二つあった。一つは、ウクライナが、ロシアと西欧の間の緩衝国家・中立国家として残ること、もう一つは、南東部ウクライナ内にすむ民族的ロシア人の権利と幸せを保障することだった。
ウクライナは歴史的に、中央から東部に至る正教文化圏(ロシアと親和的)と西部ガリツィアのカトリック文化圏(ハプスブルク王朝、ポーランドと親和的)に二分され、かつ、第二次世界大戦時にはナチスが西部ウクライナに侵攻、一部のウクライナ愛国者がウクライナ独立のためにその力を借り、東西相分かれて両者が戦う悲痛な歴史を持つ国だった。
91年独立後のウクライナは、大統領が、親欧か親ロシアかによって政治外交が振り子のように動く不安定国家として推移してきた。その大爆発が13年から14年に起きたマイダン革命であり。結果として、プーチン氏によるクリミア併合・親ヨーロッパ大統領(ポロシェンコ氏)の選出・ドンバスロシア人保護のための「ミンスクⅡ合意」(ウクライナ・露・独・仏・ドンバス代表)が生まれた。
独立後のウクライナ内政では、親ヨーロッパ…
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週刊エコノミスト
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