経済・企業

70年代に後れを取った利上げに半世紀後も踏み切らない日銀の苦悩=山本謙三

「物価の番人」を自任するが……(日銀本店)Bloomberg
「物価の番人」を自任するが……(日銀本店)Bloomberg

 足元の物価上昇が2%を超えて進行しても、現在の日銀は容易には利上げに踏み切れないジレンマを抱える。

列島改造時代は物価上昇も許容されたが……=山本謙三

 1970年代前半、日本経済は第1次オイルショック後のいわゆる「狂乱物価」と呼ばれる混乱に陥った。物価の高騰は、人々の不安心理をかき立て、トイレットペーパーを買い求めて長い行列ができたり、旧国鉄の一部駅舎で乗客が暴徒化したりした(図)。

「物価の番人」を自任する日本銀行にとって、痛恨の極みとなった時代である。戦後日本の経済成長を支えた「円安気味の為替相場」と「割安な原油価格」という二つの前提が崩れようとする転換点であった。

 71年8月、当時のニクソン米大統領が米ドルと金との交換停止を発表し、1ドル=360円の固定為替相場が崩壊。4カ月の変動相場を経て、同年12月のスミソニアン合意で1ドル=308円の固定相場制に復帰したが、長続きせず、73年2月に現在の完全変動相場制に移行した。

 この円切り上げは、日本の輸出競争力を低下させ、不況の要因となった。実際、71年の実質GDP(国内総生産)成長率は前年の10.3%増から4.4%増に落ち込んだ。日銀は同年12月、当時の政策金利であった公定歩合を5.25%から4.75%へ引き下げた。

 日銀はその後も追加緩和を模索したが、規制金利下にあった預貯金金利の引き下げに、郵便貯金を管轄する郵政省(現総務省)が抵抗。公定歩合の引き下げは72年6月までずれ込んだ後、4.75%から4.25%に引き下げられた。この時には景気はすでに回復に向かっており、資金供給量(マネーサプライ)も前年比25%を超える高さとなっていた。タイミングを逸した追加緩和は、むしろ高インフレの素地となった。

 その後72年7月には、田中角栄内閣が発足。田中元首相は「円の再切り上げは絶対に行わない」とし、「そのために積極的な財政金融政策を展開する」と言明した。大型の補正予算が組まれ、空前の列島改造ブームが起きた。全国で地価が高騰し、物価の上昇圧力も一段と高まった。

物価上昇は20%超

 日銀の対応は後手に回った。72年秋以降、緩和スタンスの修正を検討し始めたが、政府からは消極的な意見が寄せられた。73年1月になると、日銀はひとまず、金融機関から強制的に預金の一定割合を預かる「預金準備率」を引き上げた。

 しかし、公定歩合の引き上げは後手に回り、4月2日に4.25%から5%となった。その頃には消費者物価(生鮮食品を除く総合)は、前年比10%近くに達していたので、日銀は遅れを取り戻そうと、その後矢継ぎ早に利上げを実施。同年12月までに公定歩合を9%まで引き上げた。

 しかし、金融政策の効果浸透には1~2年かかるため、物価上昇はなかなか止まらなかった。73年秋に第1次オイルショックが発生したこともあり、74年入り後の物価は前年比で20%を…

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週刊エコノミスト

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