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ゴルビーの「遺言」、ロシアとウクライナの敵意煽る米への警戒 東郷和彦
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「ソ連型社会主義」強化狙うも挫折
旧ソビエト連邦最後の最高指導者だったゴルバチョフ氏が8月30日に91歳で死去した。共産党書記長就任(1985年3月)からソ連解体に伴うソ連大統領辞任(91年12月)までの6年9カ月に残した業績は濃密で、特に東西冷戦を終結に導いた外交成果は世界史に名を残す偉業である。
89年11月にベルリンの壁が崩壊し、翌12月にはマルタ島でブッシュ(父)米大統領とともに冷戦終結を宣言。90年3月にソ連共産党の一党独裁体制を放棄し、初代のソ連大統領に就任。同年10月、ノーベル平和賞を受賞した。88年7月に中曽根康弘首相(当時)が訪ソ、ゴルバチョフ氏と会談した際に、筆者は外務省ソ連課長として随行した。看板政策のペレストロイカ(立て直し)を掲げて3年、間近で見たゴルバチョフ氏からみなぎる迫力は強烈だった。
他方で、抜根的な改革に対して共産党保守派の反発を買い、91年8月にクーデターを起こされる。反乱は失敗に終わったものの、政治的権威は失墜。同年12月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの3共和国からソ連離脱と独立国家共同体(CIS)の樹立を突きつけられ、ゴルバチョフ氏はソ連大統領を辞任。ソ連は崩壊に至った。
ロシア国内で、ゴルバチョフ氏に対する評価は高くない。ロシア連邦大統領に就任したエリツィン氏が、市場原理に基づく米国型の改革を導入した結果、経済は大混乱に陥った。猛烈なインフレと高失業率により国民は辛酸をなめた。そのことが厳しい評価につながっているのだろう。
ゴルバチョフ氏からすると、国難はエリツィン氏が招いた事態であり、責任転嫁されるのは不本意だっただろう。実際、ゴルバチョフ氏は、強力なソ連を維持して社会主義を強化しようとしていた。ソ連解体とは正反対の未来を目指し…
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週刊エコノミスト
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