私の97年11月/1 デフレ・マインドの起点となった 早川英男
1997年の金融危機から25年。当時の関係者は「あの時が日本経済の転換点だった」と口をそろえる。当時の日本の指導層は問題を過小評価、解決を先送りし続けることで、日本経済の強さを支えていた日本型雇用システムまで崩壊させてしまった。非正規雇用の増加と就職氷河期世代の誕生は、生産性の低迷と少子化の両面から、日本経済の復活を阻んでいる。時は巡り、世界的な金融バブルは米国の利上げをきっかけに破裂しかねない危うさを内包する。足元の円安進行は、98年の長信銀破綻をきっかけに発生した「日本売り」も想起させる。世界は日本の教訓から学ぶことができるのか――。
金融危機とその後の日本経済の変遷を「私の97年11月」と題して関係者に総括してもらった。まずは、東京財団政策研究所主席研究員の早川英男氏から。
日本を代表する大企業でさえ、倒産の憂き目に遭う──。北海道拓殖銀行や山一証券が相次いで破綻し、金融危機が起きた1997年11月、そう痛感したのは私だけではなかっただろう。77年に大学を卒業し、日銀に入行した私は、当時の友人・知人の中に自分の都合で会社を辞めたり、転職した者は数多くいたが、会社の倒産で職を失った者が出たのは、この時が初めてだった。その後、企業や家計の慎重な行動様式という意味でデフレ・マインドをもたらす起点がここだったと思う。
「明日は我が身」とばかりに、金融機関は貸し出しを渋るだけでなく、融資を回収する「貸しはがし」という異常な行動に出た。事業会社も生き残りに必死で、前向きな投資などしている状況ではなかった。どんな優良企業でも資金繰りがつかなければ、破綻してしまう。
当時、日銀の調査統計局課長だった私は、翌12月以降の経済統計に目を疑った。まず個人消費が急減した。12月の内閣府消費者態度指数は、消費増税や東日本大震災後も上回る過去最悪の前回比5・6ポイントの悪化。「雇用環境」は実に13・8ポイントの悪化と、それまでに見たこともない数字だった。翌98年1〜3月の中小企業の設備投資も大きな落ち込みを見せた。
その後も、不良債権の早期処理が進められた2002〜03年、リーマン・ショック…
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週刊エコノミスト
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