私の97年11月/2 資本主義は終焉を迎えた 水野和夫
有料記事
1997年の金融危機から25年。「日本経済の転換点」と呼ばれるこの年に何が起き、その後どう変遷したのか。「私の97年11月」と題して関係者に総括してもらった。2人目は、法政大学教授の水野和夫氏。
当時、私は国際証券(現三菱UFJモルガン・スタンレー証券)の調査部門に在職していた。4大証券の一つだった山一証券や都銀の一角だった北海道拓殖銀行が相次いで破綻するのを目の当たりにして、「うちの会社は大丈夫か」と同僚たちと心配したのを覚えている。大手企業の不倒神話が崩壊し、多くのサラリーマンに衝撃が走る事件だった。
1980年代後半に始まった日本のバブルが、90年代初頭に崩壊。その後、株価や不動産価格が下落し続け、政府の経済対策もむなしく景気が低迷する中、バブル崩壊後に金融機関が抱え込んだ不良債権が火を噴いた瞬間だった。
ここで考えなければいけないのは、80年代後半になぜ、バブルを引き起こしたか。米ソの冷戦状態の中、米国へ日本は米国債を購入することで事実上、資金支援する状態だった。つまり、資金面でソ連崩壊に日本は協力した格好だ。
金融政策でも日本は米国に大きく貢献する。85年のプラザ合意では円高を受け入れ、その円高不況をやわらげようと、日銀は必要以上に金融緩和を続けた。それが巨大なバブル醸成につながった。
対米協力が常に日本政府の最優先課題だということが問題であり、今後も続けると、恐らくまた同じことが起きるであろう。ベルリンの壁崩壊直後に日本の土地・株式バブルが崩壊したように、ウクライナ・ロシア戦争が終わったら円安が一転して円高不況を招来し、「失われた30年」がさらに伸びるであろう。
持続可能な社会へ
対照的だったのは、当時の西ドイツ。同じ敗戦国として、戦後米国の支援によって経済再建に成功すると、金融政策では米国に歩調を合わせて緩和的な政策を続けるのではなく、80年代後半、引き締め方向に転換。これが87年の米国株急落を招いた。「ブラックマンデー」である。
その後もドイツは米国(ドル)のくびきから逃れようと、共通通貨ユーロ創設に尽力し、現在に至る。仮に西ドイツの旧通貨マルクのままな…
残り666文字(全文1566文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める