教養・歴史 ロシアの闘う現代アーティスト
スターリン独裁下で政権礼賛も ショスタコーヴィチの秘めたる反抗 中川右介
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大音楽家のショスタコーヴィチは国会議員にもなり、ソ連政府から国葬された英雄だ。しかし、楽曲には反体制的な描写が秘められ、その二重性が人々を引きつける。
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ロシア最初の「専業作曲家」であるチャイコフスキーは帝政時代に生きて亡くなった。その次の世代は帝政時代に生まれ、作曲家としての名声を得たところでロシア革命が起きている。
ラフマニノフは革命直後に出国し亡命、二度と帰らなかった。ストラヴィンスキーは1914年からパリなどで暮らし、やがてアメリカ市民権を得て、62年に外国人としてソ連を「訪問」した。プロコフィエフは18年に出国し亡命したが、ソ連へ戻り、53年にスターリンと同日に亡くなった。故国との関わり方は、三者三様だ。
ドミートリイ・ショスタコーヴィチ(1906~75年)は民族としてはロシア人だが、この人の場合は、「ソ連の作曲家」と呼ぶべきだろう。あの異様な国家体制のもとで生きたことを抜きにして、彼の音楽は語れない。
ショスタコーヴィチは9歳で母からピアノを習い始め、13歳でペトログラード音楽院に入学した。その間にロシア革命があったが、ショスタコーヴィチ家は貴族でも富豪でもないので、革命には好意的だった。
革命政権内では、「クラシック音楽」をどう扱うかが検討された。貴族や富裕層の音楽なので、労働者の国家では否定すべきという意見もあった(後に、中国が文化大革命時にこの考えのもと、クラシック音楽を弾圧している)。一方で、「すぐれた芸術は社会主義国家でこそ誕生する」という考えもあり、政権は後者を採用した。
ソ連は国家を挙げて優秀な音楽家を養成することになった。ショスタコーヴィチは、「革命の子」第1世代の期待の星となり、26年に音楽院の卒業制作として交響曲第1番を書いて絶賛された。さらにピアニストとしても優秀で、27年の第1回ショパン国際ピアノコンクールに、ソ連代表のひとりとして出場した(入選はできなかった)。
政権による弾圧と称賛
ショスタコーヴィチの作曲家としての最初の頂点は、34年1月に初演されたオペラ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」だった。商人の妻が不倫し、夫とその父を殺す物語で、大胆な性描写もある。いま初演されたとしても物議を醸しそうな作品だが称賛された。
ところが初演から2年後の36年1月26日、モスクワのボリショイ劇場での上演をスターリンが観劇し、途中で帰ってしまったことから、ショスタコーヴィチの運命は暗転した。28日、ソビエト共産党機関紙『プラウダ』は、このオペラを全面否定する論文を掲載した。スターリンは気に入ら…
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週刊エコノミスト
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