エコノミスト冥利に尽きたプラザ合意とボルカーの実体験 浜矩子
有料記事
自分をバブル世代とは思っていない。私は1975年に大学を卒業し、三菱総合研究所に入社。70年代のオイルショック、85年のプラザ合意、その後の円高回避に向けた日銀の金融緩和が80年代後半のバブルを醸成し、その崩壊を目の当たりにした。プラザ合意後のカネ余りが株や不動産、そしてゴルフ会員権まで高騰させる狂乱ぶりは、とんでもない結末を迎えるだろうと観察していた。英国の南海泡沫(ほうまつ)事件やオランダのチューリップバブルを勉強していたからだ。日本のバブルを分析対象として、突き放してみていた。
>>特集「バブル世代vs.デフレ世代」はこちら
誤解を恐れずに言えば、この体験はエコノミスト冥利に尽きる。71年のニクソン・ショック(金とドルの交換停止)から米国のインフレは制御できない状況に陥り、ボルカー(元FRB〈米連邦準備制度理事会〉議長)がどうにか封じ込めた。だが、その後金融の自由化が進み、アンカーなき通貨(金融)の激動の世界に突入。2008年のリーマン・ショックに至るまで、バブル世代は翻弄(ほんろう)され、それに続くデフレ世代を生み出した。
植田日銀に期待できず
バブル崩壊後の30年余りを振り返れば、日本人はもともとデフレ体質で、質素倹約な国民性だと思うかもしれないが、それは違う。80年代のバブル期には踊った。とんでもない借金をして投資する人が少なからずいた。戦前の大正や昭和初期も、自由奔放にカネを使っていた。札束に火をつけ、明かり代わりにするような蛮行も横行。劣悪な企業の社債が乱発され、それを買った投資家の債務不履行が相次ぐ事件が起きた。そこで、スジの悪い社債を閉め出すための「社債浄化運動」が始まった。
節約を政府が推奨したのは、戦後のこと。敗戦から復興に向けて、国民に郵便貯金させ、その資金を重化学工業に優先的に振り向ける傾斜生産方式が採用された。
日本にも40年ぶりとも言われるイン…
残り1089文字(全文1889文字)
週刊エコノミスト
週刊エコノミストオンラインは、月額制の有料会員向けサービスです。
有料会員になると、続きをお読みいただけます。
・1989年からの誌面掲載記事検索
・デジタル紙面で直近2カ月分のバックナンバーが読める