少子化招いた“三つの油断” 貧困の増加に備えを 松浦司
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出産可能な女性が減っているため、少子化対策の効果は限定的だ。人口減少を前提とした政策が求められる。
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人口論において最も有名なグランドセオリーは、人口転換論である。人口転換論とは、経済が発展するとはじめは死亡率が低下して多産少死となり、さらに出生率が低下することで少産少死の段階に至るという理論である。本稿では人口転換論の枠組みで、日本の人口と経済の100年を振り返り、ポスト人口転換に直面する今後の人口と経済の関係をグローバルに考察する。
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100年前の日本は出生率も死亡率も高い多産多死の段階であった。およそ100年前の1920年は、日本の人口史のなかで時代を画する年であり、この年に第1回国勢調査が実施され(表1)、日本の人口は5500万人であることが確定された。この時期に国勢調査が実施された背景には、日本の人口問題が大きな問題となったことが挙げられる。現在の日本と全く異なり、当時の人口問題とは過剰人口と食糧問題であった。狭い日本の国土で、増加し続ける人口を養うことができるのかという問題を突きつけた。
食糧不足から移民奨励
さらに、第一次世界大戦期の米騒動によって人口問題が喫緊の課題であることを、政府は認識するようになった。一方、政府は明治時代から移民奨励策を採用し、ハワイをはじめとする海外各地への出稼ぎ労働者も増加した。しかし、米国では日本人の出稼ぎ労働者を嫌悪する世論を背景に排日移民法が1924年に成立した。日本は急激な人口増加に直面し、具体的には食糧不足という問題が懸念された。つまり、20年代の人口問題とは、過剰人口を原因とした食糧不足と貧困が具体的問題として顕在化し、移民奨励という政策も受け入れ国の移民の受け入れ拒否という制約に直面したことにある。このことは、日本が豊富な資源を目的にして中国大陸をはじめとするアジアに侵攻する一因となった。ただし、政府は過剰人口を問題としていたにもかかわらず、産児制限には否定的であった。産児制限運動家のサンガーが22年に来日したときも、産児制限の講演をすることを禁じている。
その後、30年代に軍国主義が台頭すると過剰人口から一転して、兵隊や軍事産業への労働力の必要性から人口増加が望ましいとされた。人口増加を目標として、41年近衛文麿内閣は「人口政策確立要綱」を閣議決定した。この要綱では、60年に「内地人」総人口を1億人にするという目標が掲げられた。
戦前は死亡率も非常に高く、平均寿命もいまと比べると格段に短かった。いまからおよそ100年前である1921〜25年の平均寿命(0歳時平均余命)は、男性で42.06年、女性で43.20年と100年後の2020年の平均寿命である、男性の81.64年、女性の87.74年と比較するとおよそ半分程度である。特徴的なのは、1921〜25年では0歳時点の平均余命よりも、10歳時点の平均余命の方が長いということである。理由は、乳児死亡率が非常に高いために、この段階を過ぎると期待値としての平均余命はむしろ長くなるためである。平均寿命は、戦間期も順調に伸びを見せていたが、敗戦期の混乱期を過ぎた頃から急激に上昇し、50〜52年では男性で59.57年、女性で62.97年となった。
また、死因も経済発展によって変化するという「疫学転換」という理論がある。この理論は、経済が未発達の段階における主な死因は結核やコレラなどの感染性疾患であるが、経済の発展と衛生状態の改善によって感染性疾患による死亡が減り、慢性疾患(生活習慣病)が死因の上位を占めるという理論である。日本でも、50年の死因の1位は結核であったが、その後大きく低下して、60年の死因は脳血管疾患、悪性新生物、心疾患となった。このように、疫学転換が正しいように見えたが、新型コロナウイルスはこの認識を大きく揺るがせ、再び感染性疾患の危機を認識させることとなった。
短かったベビーブーム
敗戦後、一転して日本は再び過剰人口に直面する。約630万人といわれる日本人が、日本国内に引き揚げた。急激な人口流入は、食糧不足や貧困をもたらした。さらに、戦後のベビーブームは、人口増加に拍車をかけて、明治以降の過剰人口問題を想起させた。その結果、50年の日本の人口は8300万人となった。最初の56年度の『厚生白書』では、「過剰人口の重圧が、国民生活の急速な回復あるいは向上を妨げている」として、過剰人口の問題を指摘している。
ただし、日本のベビーブームの特徴は急速に終焉(しゅうえん)を迎えたことである。たしかに、47〜49年は合計(特殊)出生率が4を超えて、この世代は団塊の世代と呼ばれた。しかし、50年には合計出生率が4、52年には3を下回った。米国のベビーブームは20年近く続いたことと対照的であった。
長期的な人口の増減を決定する要因は、合計出生率と人口置換水準の大小である。合計出生率>人口置換水準であると長期的には人口が増加し、逆だと人口が減少する。一般に女児100人に対して男児が105人産まれること、再生産期前に死亡することから、人口置換水準は先進国では2を少し上回る。現在の日本では2.07である。戦後の日本の出生率と人口置換水準をみると、56年には合計出生率は人口置換水準を下回り、その後は上下を繰り返し、74年以降は常に合計出生率は人口置換水準を下回り、75年以降は2を常に下回っていた。日本の出生率低下によって、将来的には人口減少や高齢化になることを、人口学者は早い段階から認識していた。しかしながら、80年代には少子化が問題視されることはほとんどなかった。人口の増加が続いていたためだ。
出生率の低下は、従属人口指数〈(15歳未満人口+65歳以上人口)÷(15〜64歳人口)×100〉の低下をもたらす。従属人口指数の低下は人口構造上、支えられる側の人口の割合が低下することを意味するために、一般的には経済にプラスの効果をもたらすとされる。従属人口指数の低下を「人口ボーナス」と呼ぶ。
出生率の低下は、二つのメカニズムを通じて経済成長を促進する。一つは、出生率の低下は家計の子育て負担の低下を通じて、家計の貯蓄を増やすことでマクロの貯蓄を増加させる。このことは投資を促進し、資本を蓄積する。二つ目は、出生率の低下によってそれぞれの子どもに対して教育投資を積極的に行うことが可能となる。この結果、人的資本が蓄積される。積極的な設備投資と教育水準の高い労働力が日本の高度経済成長の要因であったが、人口構造がその背景に存在した。
人口転換論では、多産多死から多産少死を経て少産少死の段階に至ると、合計出生率は人口置換水準に一致することで、定常状態になることを想定していた。しかしながら、合計出生率は人口置換水準を下回り続けた。このため、人口転換論以降の新しい段階に注目が集まった。この時期をポスト人口転換期という。
日本では、合計出生率の低下傾向が続いた。その結果、89年に合…
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週刊エコノミスト
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