マルクス主義への懐疑と批判⑲経済的な繁栄が直接的に幸せな社会とはならない 小宮隆太郎
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高い経済成長によって物質的な生活水準が向上、社会保障制度・教育制度等の改善、公害・災害の防止は生活の改善につながるが、それが人々の幸福かは大いに疑問という。
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こみや・りゅうたろう 1928年京都市生まれ。52年東京大学経済学部卒業。55年東京大学経済学部助教授。64年米スタンフォード大学客員教授。69年東京大学経済学部教授。88年通商産業省通商産業研究所所長。89年青山学院大学教授。東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。戦後の日本の近代経済学をけん引する一方で、後進指導に尽力し、政財官界に多くの人材を輩出した。2022年10月死去。本稿は本誌1970年11月10日号に寄せた論考の分割再掲で、今回が最終回である。
人間の社会生活の進歩につながる問題のもう一つの側面として、精神的・心理的なものを考えよう。高い経済成長率が維持され、物質的な生活水準が向上、極端な貧困はなくなり、社会保障制度・教育制度等が次第に改善され、公害・災害の防止によって生活環境が改善されることによって、人々がより幸福になるか。私は、はなはだ懐疑的である。
倫理的価値は変わる
人々が餓死したり凍死せず平均余命が延び、教育水準が高くなり、不幸な人々に社会の扶助が行き届くことは、社会生活の大きな進歩である。しかし、そういう進歩の結果として、人々が自らを幸せに思うようになるかというと、必ずしもそうではなかろう。人々が自らを幸せと考えたり、不幸に思ったりするのは、人と人との個人的関係、社会的な人間関係、そしてそれに反応する各個人の心理的、精神的要素に依存するところが大きい。物質的な富や繁栄と主観的な幸福、心の平和との関係は、ある所得水準を超えるとそれほど密接ではなくなる。
つまり経済的な繁栄の直接の結果として、社会が住みよく、幸せな社会になるとは必ずしも思われないのである。
社会のなかで生活している人間が、なぜ不安を感じるか、なぜ満足を感じるか、人はなぜ疎外感や屈辱感を味わうか、孤独、抑圧、挫折を感じるか。逆に、支配欲や権力欲の充足を感じるのか。そういうことと、ある社会の物質的な富や平均的な生活水準とは、それほど密接な関係はないように思われる。
たとえば、最近の日本のような急速な変革の過程にある社会では、経済状態の変化が速やかであるとともに、人間関係が速やかに変わりつつあり、人々の地域的移動もひんぱんに行なわれる。それにともなって倫理的価値体系・礼儀・習慣等も次第に変化しつつある。このような急速な変化の過程では、多くの人々が感じる不安・緊張感・窮迫感・疎外感等は停滞的な社会の場合よりも高まる傾向がある。
物質的・経済的な繁栄は、社会を構成している大勢の人々が幸福に暮らしていくための必要条件ではあるが、その一つにすぎない。どのような要因が社会的福祉を規定しているかは経済学のみならず、他の社会諸科学の協力によって解明すべき重要な課題と思われる(以下の囲み参照)。
自分の所得を喜捨してから「GNPくたばれ論」を主張せよ 最近盛んに議論されている、「GNP(国民総生産)くたばれ論」とか、GNPに代わる社会福祉の指標を作るべきであるとかいう議論は、私にいわせれば、まったくピントのはずれた見当違いの議論である。 まず第一にGNPとか国民所得とかは、本来一国の経済活動、あるいは生産・消費・投資の水準を示す指標であって、経済的福祉の指標、ましてや社会的福祉の指標としての意義は、きわめて限られたものである。そんなことは経済学の常識だろう。身長や体重が順調に増えているかどうかということは、子供の心身の健全な発達を気づかう親たちが注意すべきことの一つではあるが、身長や体重が子供の健康の指標、ましてや精神の健全の指標としてそれほど意味のあるものではない。 第二に、「くたばれ…
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