法務・税務 エコノミストリポート

ゲノム医療法は成立したが「遺伝差別」懸念は消えず 底流に優生思想 武藤香織

旧優生保護法を巡る国家賠償訴訟で最高裁が国に賠償を命じ、「勝訴」などと書かれた紙を掲げる原告ら(東京都千代田区で2024年7月)
旧優生保護法を巡る国家賠償訴訟で最高裁が国に賠償を命じ、「勝訴」などと書かれた紙を掲げる原告ら(東京都千代田区で2024年7月)

 病気のリスクなどを調べる遺伝子検査や、個人の特性に応じたゲノム医療が広がる一方、遺伝子にまつわる差別も懸念される。

新型出生前検査で陽性だった妊婦の中絶率は8割

 1997年公開の米SF映画「ガタカ」は、私たちが生まれ持っているゲノムを出生前に操作し、完璧な能力や外見、体力を備えた者を「適格」、そうした技術を施さずに自然妊娠で生まれた者を「不適格」と扱う近未来を描く。「不適格」な者に就業の自由はない。先天的に心臓が弱い主人公は、事故による中途障害で選手生命を絶たれた元水泳選手と出会い、彼から髪や血液などの提供を受けて自分のゲノムを「適格」に偽装することに成功し、宇宙飛行士を目指す──とのストーリーだ。

「ガタカ」が現実味

 97年当時は、人間の全遺伝情報(ヒトゲノム)を解読する、日米欧などの「国際ヒトゲノム計画」(2003年終了)の真っ最中で、種としての「ヒト」が有するゲノムの構造も明らかでなかった。同じ97年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)が採択した「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」は、「象徴的な意味において、ヒトゲノムは、人類の遺産である」(第1条)と位置づけ、遺伝的特徴に基づいて差別を受けることがあってはならない(第6条)と明記している。27年経過した今、私たちはどんな時代を生きているのか?

 国際ヒトゲノム計画でヒトのゲノム配列が解明されて以降、世界中の研究者と研究参加者のおかげでゲノムと病気に関する理解が進んだ。その結果、私たちは今、「ゲノム医療」を享受できる時代を生きている。ゲノム医療とは、その人固有のゲノムを詳しく調べて、病気の予防、診断、治療法の選択に生かす医療のことだ。

 特に、がんはゲノム医療が最も進んでいる領域だ。環境や生活習慣の影響で細胞内のゲノムが変化すると、がん細胞が生まれる。がんになった部位の細胞から変化したゲノムの特徴を調べれば、それに適した薬(分子標的薬など)を選んだり、投与しても有効性を期待できない薬を回避したりできるため、治療法の選択肢はより適切になる。がん以外でも、薬を処方する前に、生まれつき薬の副作用が出やすい特徴があるかどうかを調べ、その人に適した用法や用量を決めることもできる。

 病気のリスクがあるかどうかも、調べられるようになった。単一の遺伝子を主な原因とする病気から、ゲノムによる影響は小さくても生活習慣との組み合わせで発病リスクが増大する病気まで、さまざまな検査や解析が可能になっている。診断が困難な難治性希少疾患でも、世界に点在する専門医がゲノムデータを共有することで、診断や研究ができるようになった。患者が病院を回らなくてもよくなり、確定診断までの時間が大幅に短縮している。

 ゲノム医療は、ビッグデータをリアルタイムに活用する医療でもある。主治医は、当たり前のようにゲノムの特徴を登録するデータベースを参照し、スーパーコンピューターや人工知能(AI)によって膨大なゲノムデータを一人一人の状態に合わせて解釈する。受診したら、まずあなたのゲノムを確認してみる、という日も遠くないだろう。

三つの心得

 ゲノム医療を享受できる時代になったにもかかわらず、残念ながら日本の学校教育では、人の遺伝やゲノムに関する基本知識や配慮事項を教えていない。そのため、患者として受診してゲノム医療に初めて触れ、困惑することもあるかもしれない。そのため、ここで三つのポイントに触れておこう。

 まず、遺伝学的検査やゲノム解析の結果を「知らないでいる権利」を心得ておいてほしい。「知らないでいる権利」とは、遺伝学的検査やゲノム解析を受けるかどうか、その結果をいつ知るか、そもそも知るかどうかについて、本人が決めるべきだとする考え方だ。

 家族とはいえ、他人が遺伝学的検査やゲノム解析を受けるように強く要求、要望することはマナー違反である。まして、本人の意思に反して、その結果を知らされることがあってはならない。この「知らないでいる権利」は、自分の意思で判断できない人にも与えられており、子どもにとって利益のない遺伝学的検査やゲノム解析は回避すべきだと考えられている。

 ゲノム医療を提案された患者や血縁者は、ゲノム医療を受けるかどうか悩んだり、複雑な情報を理解することが難しく感じたりする。そのような時に備えて、「遺伝カウンセリング」を提供している医療機関を探すことを勧めたい。遺伝にまつわる悩みを相談でき、意思決定が支援される。遺伝カウンセリングを提供する医療機関は、全国遺伝子医療部門連絡会議のウェブサイトで調べられる。

 最後に、ゲノム医療では、多様な用途での患者データの利活用に対して同意を求められる。その理由は、ビッグデータを活用しないと医療の質が向上しないためだ。もちろん、意思決定は任意だが、多くの人々のデータが蓄積・活用されれば、ゲノム医療…

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週刊エコノミスト

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