ネパールが「脱途上国」へ 日本と目指す“究極の金融”
「世界の屋根」と呼ばれるヒマラヤ山脈で有名な山岳国ネパール。その政府と中央銀行が、国策としてキャッシュレス決済の導入と、自国通貨ネパールルピーのデジタル化に向けて動き出した。プロジェクトには、日本のベンチャー、GVE(東京都中央区)と国際協力機構(JICA)が協力する。
ネパールは1人当たり国内総生産(GDP)が1034ドル(約11万5000円、2019年)とアジア最貧国の一つだが、経済の基盤である金融インフラを確立できれば、発展途上国からの脱出も期待できる。
600万人が出稼ぎ
世界の高峰トップ10座のうち8座はネパールにある。ヒマラヤの主峰エベレストを筆頭に、いずれも8000メートル級の山々だ。7000メートル級以上は33座を数える。壮大な景観を目当てにネパールを訪れる観光客は増え続け、18年には初めて100万人を突破した。
だが、観光ビジネスだけで同国の人口約2900万人を養うことは不可能だ。観光を除くと、産業の柱は就業人口の約7割が従事する農業と繊維業にとどまる。
国内に仕事がないネパールの人々は、働き口を国外に求めざるを得ない。出稼ぎ労働者は足元で500万〜600万人に上り、現在も1日当たり1000~1500人が仕事を求めてネパールから流出している。国民を養い、さらに輸出で外貨を稼げる産業の育成は喫緊の課題だ。
「それにはまず、安全な送金ルートが欠かせない」
海外在住ネパール人協会のデーブ・マン・ヒラチャン会長は、そう指摘する。
国外で働くネパール人労働者の仕送り額は、日本円換算で年間7000億~1兆円に上るが、仕送りに既存の金融機関を使うと送金額20万~30万円につき5000円の手数料を取られることもあり、コストがかかりすぎる。出稼ぎ労働者の中には、送金の知識がないため意図せずに「地下銀行」と呼ばれる闇金融に預け、盗まれるトラブルが絶えないという。
ネパール国内の経済活性化のためにも、銀行に代わる新たな金融インフラは欠かせない。実際、国民の4割はいまだに銀行口座を持っていない。国内には171の金融機関があり、ATM(現金自動受払機)も含めると国内に約8600拠点があるが、国内全域をカバーするには至らず、銀行サービスが行き届いていない。「新しいビジネスを始めたくても資金移動の手段がなくては難しい」(ヒラチャン氏)。
ネパールの農業は本来、大きく活性化する余地がある。耕作地の標高差(海抜100メートル以下の低地から4000メートルの高地)と気温差(零下~約40度)が生む、変化に富む環境が多様な作物の栽培を可能にする。しかし、経済活動の基盤となる金融インフラが未発達であるため、ビジネスとして農業に参入する者はなく、担い手の減少から耕作地の40%が休耕地。このため食料の7割を中国やインドなど海外からの輸入に頼る。
中国、インドという巨大市場が間近にありながら売るものが少なく、国内で生み出された財や出稼ぎ労働者の仕送りのほとんどは、国外からモノを買うために費やされ投資にまで回らない。ネパールの貿易収支は輸出970億円に対し、輸入は1兆4800億円と輸出の約15倍。大幅な赤字体質から抜け出す糸口が見えない。
ネパール商工会議所連盟(日本の経団連に相当)の特使も務めるヒラチャン氏は、経済発展に欠かせない金融インフラの必要性をネパール政府に訴え続けてきた。考えられるインフラの一つが、中国など新興国で爆発的に普及しているスマホを使った簡便な決済システムである。ネパールでは、銀行の口座開設者は4割にすぎないが、携帯電話の普及率は100%で、全人口の6割がネットを利用している。移動通信網も整備されており3G回線が使える。つまり、すべての国民がスマホを使用できる環境が整っている。貧困層にとっては、口座開設が難しい銀行よりも、スマホですぐに使える決済アプリの方がメリットは大きい。
慢性的な財政赤字の解消と産業振興の必要を痛感していたネパール政府は、財界からの強い要請を受けて動き出した。
きっかけはスーチー氏
19年に、ネパール政府・中央銀行から新たな金融インフラの構築を頼まれたのが、17年に創業した日本のフィンテック(ITとファイナンスを融合した技術分野)関連企業、GVEだ。
GVE共同代表の房広治氏は、スイスに本社を置く大手金融UBSグループの日本法人トップを務めた金融マン。フィンテック分野に進むきっかけは、GVEの創業前にさかのぼる。独立後、金融コンサルティングなどを手掛けていた房氏に15年ごろ、母校の英オックスフォード大学を通じてミャンマーの指導者アウンサンスーチー氏から「経済改革を支援してほしい」との依頼があった。
ミャンマーの経済プロジェクトの一つが、国が発行する「デジタル通貨」の開発だった。人口5000万人超のミャンマーは、15年時点で銀行口座の保有率が10%未満で、地方では高利貸しで借金漬けになる人々も急増。一方でスマホ普及率は人口の7割に達していた。そこで、スマホを活用し国民一人ひとりに政府の管理が行き届くデジタル口座を与えたい、というのがスーチー氏の希望だった。
スーチー氏の考えは、「ファイナンシャル・インクルージョン(金融包摂)」に他ならない。金融包摂とは、貧困や差別によらず、すべての人々が、経済活動に必要な金融サービスを利用できるようにする取り組みである。
房氏に白羽の矢が立った理由の一つは、金融に加えITへの造詣があること。房氏は、「世界中のスマホをつなげることで、例えばドルも円も人民元も取引可能なシステムが理想だ」と考え、安全に送金できるデジタル通貨の開発に乗り出す。
一方で房氏は、スマホ決済の課題が安全性にあることも感じていた。既存のキャッシュレス決済は情報漏えいのトラブルが絶えない。中銀が運営する法定デジタル通貨は、「100%安全でなくてはならない」(房氏)。
房氏は、日本の電子マネーの「スイカ」や「エディ」の基盤技術になっている非接触型ICカード技術「FeliCa(フェリカ)」を開発した元ソニーの技術者、日下部進氏に協力を求めた。日下部氏は房氏の中高大学の先輩でもある。房氏が日下部氏を頼ったのは、実用化後20年以上経過するフェリカが、ハッキングなどで大きな被害を受けていないからだ。房氏は日下部氏を技術顧問に迎え、新しい通貨・決済プラットフォームの仕様を作り始めた。
その結果、スマホを活用するデジタル通貨のプラットフォームとして高い安全性を確保しうる発明が完成(81ページ囲み参照)。「EXC」と名付け、その開発会社としてGVEを設立し、特許も申請した。18年4月には、まず日本で特許が成立。現在、米国や欧州にも国際出願している。
当初依頼を受けたミャンマーのプロジェクトは、技術以外のさまざまな要因で立ち消えになったが、GVEにはオックスフォード大のネットワークを通じて、新興国6〜7カ国の政府・中銀から同様の相談が舞い込んだ。その一つがネパールだった。
エストニアに追いつけ
房氏は19年9月初めにネパールの財務大臣、中銀総裁など政府要人と面談。EXCプラットフォームがネパールの決済インフラを担い得る可能性を持っていることを説明し、全員から事業の推進について賛同を得た。
開発パートナーとなるために、ネパール政府がGVEに課した条件は、EXC導入のプロジェクト費用を一部負担してくれる資金提供者を見つけることだった。
房氏はJICAに協力を依頼。案件は20年1月7日、正式に採択され、官(ネパール政府)と民(GVE)が協力して事業を行う「パブリック・プライベート・パートナーシップ(PPP)」をJICAが支援する方向で決まった。
房氏から直接要請を受けたJICAの山田順一理事(南アジア部担当)は協力を決めた理由について、「決済プラットフォームがもたらす“デジタル・トランスフォーメーション(DX)”は、ネパールのような発展途上国ほど効果が期待できるからだ」と話す。
DXとはデジタル技術を活用し、暮らしや行政、産業の変革を促す概念だ。IT革命やデジタライゼーションが技術そのものの変化を指すのに対し、DXは、例えば社会の在り方やそこで暮らす人たちをデジタル技術で変化させることを意味する。
社会インフラが整備されていない環境で、新しいサービスが、先進国が歩んできた発展の道のりを飛び越えて一気に広まることを「リープフロッグ現象」と呼ぶ。リープフロッグとは文字通りLeap(跳び)Frog(蛙)のことだ。典型的な事例に、新興国や発展途上国で固定電話を飛び越えてスマホが普及した現象がある。ネパールもEXCによって、一気に先進国をしのぐ利便性を持った金融インフラを手に入れることができるかもしれない。
即時決済プラットフォームの運営や維持管理体制の在り方については、3月以降に開始される予備調査で確認していくことになる。
房氏は、EXC導入によってネパールを「欧州におけるエストニアのような存在にしたい」と話す。エストニアは独自の情報連携基盤「X─Road(エクスロード)」を構築し、「eガバメント」と呼ばれる電子政府システムも実用化している。例えば、同国では国民ID番号が普及しており、デジタルIDカードを使った「電子納税」の利用率は95%に達する。いわば「DX先進国」だ。
ヒラチャン氏も「ネパールがアジアにおけるDXの見本になる。その先はDXプラットフォームを世界に輸出できたらいい」と期待する。
ネパール政府とGVEが構想する即時決済プラットフォームは、ネパールルピーの「事実上のデジタル化」と言える。房氏によれば、今後ネパールで法律が改正されて「脱現金」が実現すれば、いつでも「デジタル・ネパールルピー」の発行に移行できるという。世界初の中銀デジタル通貨になる可能性もある。
「リブラ」にできないこと
中銀デジタル通貨は現在、世界で研究・開発が進んでいる(82~84ページ参照)。スマホの普及に伴うキャッシュレス決済の多様化で、中国の「アリペイ(支付宝)」のように十数億人が使うサービスが登場し、さらにフェイスブックも独自のデジタル通貨「Libra(リブラ)」を計画するなか、中銀デジタル通貨の存在意義は何か。
一つは、民間発行のデジタル通貨が、現在の法定通貨を代替するには、限界があることだろう。
例えば、中銀が発行する通貨は、貸し付けによって預金通貨を創造できる「信用創造」の機能を市中銀行に与える。市中銀行は信用創造によって「信用貨幣」を生み出し、社会全体の通貨量を増やすことによって、経済活動を円滑にする役割を持つ。中銀デジタル通貨になっても、市中銀行が信用創造を行うことは可能だ。
一方、民間企業のデジタル通貨はどうか。例えばリブラの場合、市中銀行がドルや円と同様に、リブラを貸し付けることは考えにくいため、信用創造は難しいだろう。実際、フェイスブック側は「リブラは信用創造を行わない」と明言している。
中銀デジタル通貨には、現金や民間決済サービスにはなしえない「究極の金融包摂」の実現が期待されている。
(大堀達也・編集部)
ネパールの金融担う「EXC」の潜在力
日本のフィンテック企業GVEが開発した、ネパールの即時決済システムを担う「EXC」は、スマートフォンに搭載されているNFC(近距離無線通信規格)を活用するデジタル通貨のプラットフォームだ。
その特徴について、同社共同代表の房広治氏は「安全性の高さにある」と話す。
安全性を担保するのは、特許も取得した「3ウェイ・データベース方式」という発明。三つのデータベースに取引内容を記帳する。すなわち、(1)銀行のようにどの口座にいつお金が入り、出ていったか記帳する「アカウントデータベース」、(2)取引を時系列順に番号を振りながら記帳する「トランザクションデータベース」、(3)マネーロンダリング(資金洗浄)対策のために、デジタル通貨にも紙幣のような通し番号(ID)を振って追跡可能にする「コインデータベース」──を作る。もし、ハッカーが攻撃しようとしても、3方向への記帳を改ざんするとなると膨大なコストと時間がかかるため事実上不可能だ。
そのほか、証券システムで言う「ストレート・スルー・プロセッシング(STP)」、つまり、決済処理の全過程において人手を介さず電子的に行い、ヒューマンエラーを排除する仕組みを構築しているという。
EXCは、国際通貨基金(IMF)が決済システムに求める条件、すなわち、(1)決済速度、(2)利便性、(3)(どのシステムともつながる)オープン性、(4)安全性、(5)低コスト──をすべて満たしている。
例えば、EXCの理論上の決済処理能力は1秒間で20万件。仏BNPパリバの調査によると、世界では年間約8800億回のデジタル決済が行われているが、EXCはその11倍まで処理できる。
システムにかけるコストが非常に安いのも特徴だ。銀行送金なら1円未満の少額送金にも対応できる。つまり、発展途上国で必要とされる「マイクロペイメント」にも適している。
(大堀達也)