『満州、少国民の戦記』復刻――藤原作弥さん
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ノンフィクション作家 藤原作弥/132
ふじわら・さくや 1937年、仙台市生まれ。東京外国語大学卒。62年、時事通信社入社。経済部で海外特派員、大蔵省(現財務省)、日銀、経団連などを担当。解説委員長だった98年、一連の不祥事で批判が高まった日銀の副総裁に民間から抜てきされ、2003年まで務めた。82年、『聖母病院の友人たち』で日本エッセイスト・クラブ賞受賞。ほかの著書に『李香蘭 私の半生』『素顔の日銀総裁たち』などがある。
時事通信社解説委員長、日本銀行副総裁など多彩な経歴を持つ藤原作弥さんの1984年刊行のノンフィクションが『満州、少国民の戦記 総集編』として復刻再販された。「平和への思いを伝えることは自分の使命です」(聞き手=井上志津・ライター)
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── ノンフィクション『満州、少国民の戦記 総集編』(愛育出版)が今年7月に復刻再販されました。新潮社から1984年に出版された『満州、少国民の戦記』が今回、「総集編」として復刻された経緯を教えてください。
藤原 ロシアによるウクライナ侵攻が2022年2月に始まり、日本の若者の間で80年前の戦争への関心が高まっているとのことで、愛育出版からお話をいただきました。『満州、少国民の戦記』は私が8、9歳の時の体験をもとにした記録ですが、初版刊行からこれまでの間に行われた岩見隆夫氏(政治評論家)、なかにし礼氏(作家)ら引き揚げ当事者によるシンポジウムの原稿や、講演、現在の論考なども加えて「総集編」とすれば、日本が作った傀儡(かいらい)国家「満州国」を改めて知る一つの資料になるのではないかと考えました。
藤原さんは44年、満州国陸軍軍官学校の国語教師をしていた父に連れられ、母、弟と共に旧満州(現中国東北部)の興安街(現内モンゴル自治区)に移り住んだ。45年8月9日、ソ連軍が満州に侵攻。藤原さん一家はソ連軍が興安街に到着する前の10日に軍関係者家族と汽車で脱出し、朝鮮半島との国境の町・安東(現丹東)にたどり着くが、満州と朝鮮半島を隔てる鴨緑江をソ連兵が警備していたため、46年秋に日本へ引き揚げるまで留め置かれた。当時、避難民として安東に流入した日本人は3万5000人といわれる。
── 藤原さんは安東でタバコ売りをして過ごしたとか。なぜタバコ売りをしたのですか。
藤原 少しでもお金を稼いで家計を助けるためでした。闇市でタバコを売りながら、8歳から9歳にかけての私が見たのは、旧約聖書の創世記に出てくる退廃的な町「ソドムとゴモラ」のような悪徳の世界でした。強盗、殺人、婦女暴行……。恐怖の交じった好奇心で、私は毎日それを見ていたものです。長じてドラマでセックスシーンや殺人シーンを見た時、何とも思いませんでした。
鴨緑江のほとりで銃殺刑を見たこともありました。八路軍(中国共産党軍)が敵対する国民党軍の兵士を処刑していたのです。10人ほどの兵士がバババッと撃たれていくのを見ていた私は、終わり近くなって気絶しました。
「葛根廟事件」を知った衝撃
── 日本人も処刑されたそうですね。
藤原 安東市公署で幹部職員を務めていた人や経済人たちが八路軍の人民裁判にかけられ、処刑されました。このため、私たちを興安街から安東へ率いた軍官学校の幹部や市公署の職員らは捕まらないように地下に潜りました。私の父は古本屋を経営しながら、地下診療所を開いたり、密造酒を作ったりして潜伏者や日本人の取りまとめをしていました。安東で別の書店を経営していた、後に俳優になる芦田伸介さんも訪ねてきていたそうです。
食糧難に加え、夏は伝染病、冬は寒さで多くの人が亡くなった中、藤原さん一家は46年秋、帰国を果たした。藤原さんは大学卒業後、時事通信社に入社し、経済記者として働く。が、40歳を過ぎたころ、偶然、興安街の国民学校の同級生と再会し、思いがけない話を耳にする。藤原さん一家が興安街を脱出した翌日、興安街の在留邦人約3000人は3班に分かれて避難したが、そのうちの1班1200人がソ連軍の戦車隊の機銃掃射を受け、1000人以上が殺されたという話だった。「葛根廟(かっこんびょう)事件」。満州3大悲劇の一つといわれる。国民学校の藤原さんの同窓生は約200人が犠牲になった。生き残ったのは60人だけだった。
── 日銀記者クラブに詰めていた時に葛根廟事件について知ったのですね。
藤原 国民学校の同級生が日銀仙台支店に勤めていて、偶然、私の名前を見つけて電話をくれたのです。東京で再会し、彼からこの事件のことを聞くまで、不覚にも私は何も知りませんでした。同窓生の大半が非業の死を遂げていたと聞かされた時の衝撃は、今もうまく言い表すことができません。私は父が軍官学校の関係者だったため情報が早く入り、一足先に脱出できたのです。卑近な感想ですが、僕だけ生きてごめんなさいという気持ちでした。それがきっかけで当時を知っている人を訪ね歩いて「満州、少国民の戦記」を完成させ、残留孤児問題などのボランティアも始めましたが、罪悪感は今も消えません。
「日本は列強に追いつき追い越せと軍事大国化し、戦争に負けると今度はマネーゲームに突っ走り再び破綻した」
── 満州国はなぜ作られたと思いますか。
藤原 日本はペリーに開国を迫られて以来、自分で自分の国のプ…
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週刊エコノミスト
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