3代目としてホッピー創業120年へ――石渡美奈さん
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ホッピービバレッジ社長 石渡美奈/130
いしわたり・みな 1968年、東京都出身。90年立教大学文学部卒業後、日清製粉に入社。93年に退社し、広告代理店勤務を経て97年、祖父の石渡秀氏が創業したホッピービバレッジ(旧コクカ飲料)に入社。広報宣伝などを担当した後、2003年副社長に就任。10年から現職。著書に『社長が変われば会社は変わる!』(阪急コミュニケーションズ)など。早稲田大学大学院商学研究科修士課程修了、経営学修士。16年には慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了。
東京の大衆居酒屋で愛され続けるビアテイストの発酵飲料水「ホッピー」の会社は来年が創業120年。創業者の孫娘の奮闘はホッピーにとどまらず、街づくりにまで広がる。コロナ禍も乗り越えた看板娘の熱意の根源とは。 (聞き手=荒木涼子・編集部)
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「ホッピーを我が子のように成長させていきます」
── 2025年はホッピービバレッジの創業120年、看板商品「ホッピー」の発売77年という節目の年を社長として迎えます。
石渡 世界がコロナ期に突入した時、地元、東京・赤坂の街にも人がいなくなり、これから世界は変わる、その社会変容の中で企業としての存在意義を見誤れば経営者として淘汰(とうた)されるだろうと感じました。会社は祖父、父が堅実な礎を築き、人生をかけて守り育ててくれたものです。自分の代で(困難に)負けるわけにはいかないし、私を信じて付いてきてくれる社員を守っていかないと、との思いでやってきました。
会社は社員一人一人の唯一無二の人生も預かっています。社員が、この会社でよかった、石渡を信じてよかったと思える会社にしたい。社員の家族にも「ホッピービバレッジで働く家族を応援してよかった」と思ってもらえるようにする、これが一番の目標です。めまぐるしく変化する社会の中で、お客様のニーズも社会全体の変化も俊敏にキャッチしないといけない。だから私も学び続けます。ホッピーの質を追求し続けることにもつながり、“この子”自身を成長させていきます。
── 07年に創業後初の新卒採用を行い、以来ずっと続けていますね。
石渡 新卒採用は本当に取り組んでよかったです。初期に入社した社員は、今ではマネジメントにも加わるなど、中核に育ってくれました。彼女ら、彼らがこの会社の次の組織を作ります。私は代表の立場から、方向性は示しつつ、サポートしていきたい。人は毎日(状態が)違います。新社会人とのやり取りは一時たりとも気は抜けませんが、良い緊張感も生まれる。私もたくさん教えてもらいますし、成長を実感するとうれしいです。
── 会社の次の100年を、彼らと作っていくのですね。
石渡 さすがに次の100年後に私は生きていませんから、責任を取れないのでなかなか言えませんが、私たちが日々取り組んでいることが正しければ、100年後も(この会社は)存続しているだろうと考えています。企業の究極の目的は永続性だと考えていますが、今回のようにウイルスであったり災害であったり、何が起こるか分かりません。乗り越えるにはレジリエンス力が大切で、創業理念にのっとって愚直にやり抜いた結果、乗り越えられれば100年後も企業として存在しているだろうなと。土台は祖父、父が作ってくれたので、私はバトンをつなげていきます。
「キラドロ作戦」で業績回復
「ホッピー」は、麦芽とホップと酵母で造られた、ビアテイストの発酵飲料水だ。アルコール分約0・8%で主にお酒の割り材として使われる。戦後間もない1948年に発売。その値段の安さから、庶民にとって高根の花だったビールに代わり人気を博し、東京・下町の居酒屋を中心に広がった。だが、時を経てライフスタイルも変わり、じりじりと売り上げは下がってしまう。そんな中、2010年に社長に就任したのが、創業者の孫娘、石渡美奈さんだ。 石渡さんは97年の入社以来、売り上げ回復に奮闘。飲食店に足を運ぶ「ドロ臭い営業」活動と、「おやじ臭いホッピーの3代目社長に女性」とのきらめく話題を掲げる「キラドロ作戦」に、低カロリー・低糖質・プリン体0というホッピーの特性もアピール。人々の健康志向や昭和レトロブームも相まって、現在は右肩上がりで売り上げが増える会社に復活させた。
── 先代社長のお父さん(故光一氏)にはなかなか入社を許してもらえなかったとか。
石渡 それまでずっと「会社を継いでくれるお婿さんを探す」と思っていて、結婚もして、でも離婚して。ずっとこれだと思っていたこと、言い換えれば信じて疑わなかった目の前の道がなくなってしまった。どこへ歩いたらいいのか分からない。突然、自分探しが始まったんです。その後入社した広告代理店も、お世話になっておいて申し訳ないけれど、やりがいを感じつつも、何か違うなという思いがあった。あてどもない自分探しの日々はしんどいものでした。
1年くらいもがき、仕事の楽しさに気づき「一生仕事をしていたい」という思いが生まれた時、天啓を受けたように「自分で家業を継げばいいんだ」とぱっとひらめきました。絶対の確信がありました。それからは、反対されても何を言われても、もう私の心は決まっていたので、突き進むだけです。毎晩午後7時ごろに帰宅してくる父をハチ公のように待ち、「…
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週刊エコノミスト
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