中世の外交担った僧侶の足跡 図面・写真を駆使して解明=今谷明
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中世における日本の対外関係ほど複雑なものはない。894年に菅原道真の建議で遣唐使が廃絶されて以降、何百年も中国との国交が断絶したままであった。その間、奝然(ちょうねん)や成尋(じょうじん)ら、仏法を求めて入宋(中国入り)した日本人僧侶があったが、彼らは驚くべきことに中国皇帝に謁見し、筆談などで問答を試みているのである。双方の情報の不足から、中国側が日本僧を一種の外交使節として扱っていたことが推測される。
対外的紛争としては、11世紀前半の刀伊(とい)の入寇(にゅうこう)(女真人(じょしんじん)の侵略)があり、さらに平清盛の日宋私貿易をはさんで元寇(蒙古襲来)に至ってクライマックスに達する。結局、五代(唐の滅亡後の五王朝)・宋・元とのあいだでは国交回復せず、それが成就したのは明代に入ってから、征西将軍懐良(かねよし)が入貢(みつぎものを差し出す)して以降のことであった。
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