戦後の郵便拡張支えた金融事業=伊藤真利子
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郵貯・簡保特会から受け入れ
戦後日本の郵便制度の性格は高度成長期に形成された。
第二次世界大戦の甚大な被害によって、破綻寸前であった日本の郵便ネットワークは、1946年に新万国郵便条約を締結、48年には万国郵便連合(UPU)に復帰するとともに、高度経済成長による右肩上がりの旺盛な郵便需要を、官独占によって受け止め、発展した。それは、旧郵便局網の再建、簡易郵便局の拡大、そして、郵政事業と通信事業の分割を前提とした郵政事業の独立採算の確立によって成し遂げられた。
料金の引き上げも
第二次世界大戦直後、日本の郵便事業や郵便ネットワークは、局舎の被災、応召による人手不足、戦後のハイパーインフレーション、交通網の寸断などの影響を受け、破綻的状態に陥った。このため、その復旧と復興が急がれた。
郵便局網については、49年7月より新たに簡易郵便局が設置された。簡易局は窓口取扱機関を必要とする地域の地方公共団体、個人などに対して業務を委託する制度であった。事実上の代理店といえ、これをテコに戦後の復興および高度成長期における郵便窓口拡充がなされた(図)。
これに対し、従来の直営局の復興は遅れており、郵便物数が戦前水準を回復した55年度以降、国費による早急な普通局の局舎改善を図る方針の下、普通郵便局舎の新設・改善のための大規模な長期計画が立てられ、57年から実施の運びとなった。しかし、財政制約によって、局舎の復興・改善は大都市を中心とした「集配局」に重点化され、地方の小規模な「特定郵便局」の改善と増設については郵政互助会の資金あるいは郵便局長の自己資金などによって支弁することとされた。
通信事業特別会計は、34年の制度設置以降黒字であったが、45年度に初めて赤字を計上した。この赤字は、公債発行と借入金によって補充する一方、料金引き上げによる増収が図られた。46年度には、業務収入約17億円のうち約10億円の経常費の不足が見込まれたことから、電信電話および郵便料金の値上げが実施された。インフレが高進する中、47年度から48年度にかけて3度の料金改定が行われた。
49年度になると、インフレを終息させるため、いわゆる「ドッジ・ライン」=超均衡予算の実施が強行され、一般会計から特別会計への繰り入れや借入金などが認められなくなり、収支均衡を図ることが至上命令とされた。郵政事業においても、収支均衡を図るためには料金収入による増収を期待せざるを得ず、49年5月には平均47・5%の値上げが行われた。
49年6月に、GHQ(連合国軍総司令部)の命令により逓信省が郵政省と電気通信省に分離、通信事業特別会計が郵政事業特別会計と電気通信事業特別会計に分割された。新しく発足した郵政事業特別会計では、49年度から51年度にかけて欠損金が生じた。この赤字分については、一般会計からの補填(ほてん)を受けて収支均衡が…
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週刊エコノミスト
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