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三島由紀夫「豊饒の海」と、数理ファイナンス 山田俊皓

東京・南馬込の自宅でインタビューに応じる三島由紀夫(1968年12月)
東京・南馬込の自宅でインタビューに応じる三島由紀夫(1968年12月)

 戦後日本文学を代表する三島由紀夫と、数理ファイナンス。意外な組み合わせだが、実は大きな共通性がある。三島の『豊饒の海』を読み解いてみたい。

あらゆる事象読み解く微分方程式

 三島由紀夫の傑作『豊饒(ほうじょう)の海』(全4巻)の最終巻では冒頭に、駿河湾(静岡県)の水面の動きを刹那(せつな)刹那(一瞬一瞬)に描写するシーンがある。刹那に滅し、刹那に生じるものは何か? 一体何が色即是空(しきそくぜくう)・空即是色(くうそくぜしき)の正体で、何が輪廻転生(りんねてんしょう)し、何がニルヴァーナ(涅槃(ねはん))に入るのか? 日本文化の極致とともに仏教の「唯識」の問題を描く上で、4巻冒頭は、有名なラストシーンに向かうためのハイライトとなる描写である。

『豊饒の海』のファンは、文学畑の人間に限らず、数学者、漫画家、映画監督からアーティストまで、挙げれば枚挙にいとまがない。宇多田ヒカルもその一人だ。人はなぜ『豊饒の海』に惹(ひ)かれるのか? それは、ストーリー構成の面白さや文章の美しさに加えて、究極の「識」である「阿頼耶識(あらやしき)」について考えさせられるからだろう。

「阿頼耶識」とは

 仏教の「唯識」では目や耳などの「五識」(五感)と「意識」の通常人間が認識する六つの識に加え、その下に「末那識(まなしき)」、そして最も下に「阿頼耶識」があるとする。阿頼耶識によって自然や人間などのあらゆる活動が規定され、これによって全てのものが認識される。

『豊饒の海』では世の万物流転の現象を「一刹那の世界は、次の刹那には一旦滅して、又新たな世界が立ち現れる」と表現し、世の根源である阿頼耶識を解説する。刹那刹那に世界を存在せしめる阿頼耶識とは、流れや現象の瞬間の動きを記述する数学の「ベクトル場」のようなものであろう。

 ベクトル場とは「動く現象の瞬間の大きさ」を決めるもので、矢印を使ってイメージ図を描くことはできるが、それ自身は現象の無限に小さい一点を記述する概念だ。「動く現象の瞬間の大きさ」自体を見ることはできないため、一見「無」に思えるが、「無い」わけではなく、刹那刹那に現象を生み出すことを待ち構えている積極的な「空(くう)」の状態である。数学が苦手な人は難しく感じるかもしれないが、ベクトル場とは金融経済に例えれば、「(瞬間)金利」に当たる。「空」である金利も手で触れることはできない。

 三島は阿頼耶識を海の水面の動きで例えた。鴨長明は『方丈記』の冒頭で「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と記したが、数学ではこうした現象を微分方程式で記述する。つまり微分方程式は、可視化できない「空」の状態(=現象の瞬間の動きを定める阿頼耶識)が、刹那刹那に具体的な現象たる「色(しき)」を生み、それを繰り返すという仏教の「色即是空・空即是色」を数学的に記述している。金融では、空が「金利」なら「色」が金利を積み重ねて得られる「お金(連続複利)」に当たる。

 微分方程式の洋書には、葛飾北斎の富嶽三十六景「神奈川沖浪裏」を表紙にしているものもある。この浮世絵は激しい大波と船、富士山をワンカットで切り取った構図で有名だ。微分方程式は、こうした刹那刹那のとめどない挙動を、一コマ一コマつなぎ合わせて全体を俯瞰(ふかん)する、といったような役割を持つ。

 刹那刹那のとめどない挙動を微分方程式で捉えられる…

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