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袴田さん釈放から10年 死と隣り合わせで進む老い 荒木涼子・編集部

自宅から歩いて出る袴田巌さん。一人で歩くことはできるが、すり足でゆっくり(浜松市中区で2023年12月28日)筆者撮影
自宅から歩いて出る袴田巌さん。一人で歩くことはできるが、すり足でゆっくり(浜松市中区で2023年12月28日)筆者撮影

 1966年の逮捕から死刑判決確定まで14年。その後、再審開始決定と釈放まで33年。そして、実際の再審開始まで9年。「袴田事件」の経過はあまりにむごい。

 静岡市(旧静岡県清水市)で起きた強盗殺人事件で1980年に死刑が確定した袴田巌さん。静岡地裁の再審開始決定によって2014年3月27日に47年7カ月ぶりに釈放されてから、間もなく10年となる。私は毎日新聞静岡支局に12年に配属されてから事件を担当し、17年4月に異動して以降も、浜松市に住む姉の秀子さんや釈放後の袴田さんと交流を重ねてきた。

 ここ数年は、高齢のきょうだいと数カ月ぶりに再会するたびに、時の流れの重みを特に感じるようになった。袴田さんは今年3月10日に88歳の誕生日を迎え、秀子さんは91歳。実際に静岡地裁で再審が始まったのは昨年10月27日のことで、再審開始決定後に抗告審が続いていた間、袴田さんや秀子さんは着実に年を取り続けた。そして、現在に至ってもなお、死刑と隣り合わせの生活を強いられているむごさに涙が出る。

 私が秀子さんに出会ったのは、再審請求審中の12年4月。支局配属から10日目だった。秀子さんは弁護団とともに県庁記者クラブで弟の無実を訴えていた。短髪の黒髪に、ハキハキとした高めの声で受け答えする、80歳近くとは思えないエネルギーに圧倒された。

 秀子さんは当時、定期的に弟がいる東京拘置所(東京都葛飾区)に足を運んでいた。面会拒否で会うことがかなわないと分かっていても「来ていると伝わりさえすれば」と、新幹線で往復していた。13年に同行した際、秀子さんは、両手の指を軽く交差させ、せわしなく動かしながら、無言で窓外の富士山を眺めていた。会見では強気に見えても、ふとした瞬間に普通の高齢女性としての姿もあった。

姉の秀子さん(中央右)に付き添われて東京拘置所を後にする袴田巌さん(同左)(東京都葛飾区で2014年3月27日)
姉の秀子さん(中央右)に付き添われて東京拘置所を後にする袴田巌さん(同左)(東京都葛飾区で2014年3月27日)

 14年3月27日。きょうだいに日本中から注目が集まった。前かがみで足を引きずり、秀子さんや弁護団と拘置所から出る袴田さんが全国中継された。当日の取材班キャップだった私は、支局のテレビ越しに見た色白で能面のような袴田さんの顔にくぎ付けになった。

「正月も何もない」日々

 検察側は即時抗告し、再審請求審は高裁で続くこととなったが、当時はやり直しの裁判「再審」は5~6年で始まるだろうと、専門家への取材を基に思っていた。だが、東京高裁が18年6月、地裁の再審開始決定を取り消す。一方で20年12月に最高裁が高裁の決定を取り消し、再び高裁に審議を差し戻すなど、やり直しの可否を巡る審議は続き、結局、再審開始が確定したのは23年3月だった。

 釈放から10年を目前に控えた昨年12月28日、私はきょうだいが暮らす浜松市の4階建てマンション最上階を訪ねた。2人との再会は7カ月ぶり。袴田さんは、南西向きの窓から日光が暖かく注ぐ、お気に入りの1人がけソファに目をつぶって深く腰掛けていた。

 秀子さんが袴田さんの肩をトントンとたたき、耳元で大きく「荒木さんが来たで」と声をかける。袴田さんは首を左に回して少しだけ目を開けてこちらを向き「ああ、どうも」と応えただけで再び目をつぶった。私が「もうすぐ正月ですね」と声をかけても、応答はない。秀子さんは「もっと腹から声を出さにゃ、今の巌にはもう聞こえんよ。それに、巌にとって正月も何もないだで。日々が過ぎることに変わりゃせん」と話した。

 釈放後、約3カ月の入院を経て、14年6月から故郷の浜松に戻った袴田さん。「面会謝絶」と閉じこもり、部屋や廊下を歩き続けた時期もあるが、翌年5月からは街中を散歩し始めた。40度近い酷暑の日も、寒風が吹き付ける日も、ときに10時間以上、街を歩き続けた。

「妄想の世界」と行き交う

 当時、私も一緒に連日街を巡った。1時間で進む距離は2キロ程度。「風が気持ちいいでね」。16年9月、袴田さんはそう言いながら、土手沿いの木陰のベンチで横になって昼寝した。切望した自由を全身で感じているのだろうか。日焼けした顔には、しわが刻まれ、背中も、半袖シャツの縫い目あたりだけが白く目立つほど、真っ黒になっていた。

大半を過ごす自宅のお気に入りのソファで、姉の秀子さんにひげをそってもらう袴田巌さん(浜松市中区で2023年12月28日)
大半を過ごす自宅のお気に入りのソファで、姉の秀子さんにひげをそってもらう袴田巌さん(浜松市中区で2023年12月28日)

 そんな姿は、今はもうない。散歩は支援者とのドライブ先で1時間程度行うが、多くをソファの上で過ごす。私が再訪したこの日は、昼食をともにとった後、再びソファで休んでから午後2時ごろ出かけた。階段を下りる足元は、さらにおぼつかなくなっていた。

 超長期にわたり死刑と隣り合わせの袴田さんは、事件について尋ねても「神の儀式で袴田巌は勝った」などと妄想の世界に入り、心を閉ざす。一人で何かをつぶやき、妄想の世界にいる誰かと話しているように見える時もある。ただし、ここ数年は徐々に登場人物が変わっているようで、つぶやきながら笑みを浮かべることも増えた。

 それでも妄想の世界と現実世界を行き来するこの状況は、10年たっても変わらない。長期の収容で、精神に障害をきたすという「拘禁症状」との障害名の一言では表現しきれない、死刑と隣り合わせの「長さ」が、いかに彼の精神世界をゆがめたか、恐ろしさを感じる。

半年で急速に進んだ老い

 かつて、精神科医として東京拘置所で死刑囚や未決囚を診察してきた作家の故・加賀乙彦氏は、拘禁症状についてこう解説していた。「未決囚が釈放されて心が癒えるまでには、少なくとも拘置期間と同じくらいの期間がかかる」。袴田さんの場合、身分としては「死刑囚」で変わりない。「30年以上、いつ死刑になるかという生活が続く彼の心が癒えるまでの期間は、想像が付かない」

「妄想の世界」に入り込む症状以外にも、日常生活で袴田さんの警戒心の強さを垣間見たことがあった。15年ごろ、持病の薬を飲みたがらず、秀子さんは食事にこっそり混ぜていた。私が静岡支局を異動した後の18年、久々に訪問してきょうだい宅に泊まらせてもらった際、昼間は袴田さんと会話していたにもかかわらず、深夜になって「違う人がいる。出てってもらってくれ」と言われたこともある。

 こうした警戒心は、秀子さんや支援者らとの交流によって、少しずつ変わり始めている。最近では、支援者が手渡す持病の薬を素直に飲み、治療を受けるようになった。また喫茶店に支援者と入れば、「(注文は)コーヒーでいいか」と、自ら声をかける。日常生活での意思疎通は釈放後の数年間に比べ、格段に取れるようになった。

「妄想の世界」が存在し続ける中でも少しずつ心の交流が広がる一方で、ここ半年で急速に進んだのが、通常の老いとしての認知や身体機能の低下だ。連日散歩を見守る支援者によると、買い物の際にそれまでできていた勘定を間違えるようになり、歩行中のつまずきも目立つようになった。

 今、静岡地裁で行われている再審では、犯行時の着衣とされている「5点の衣類」に付着する血痕の色合いが最大の争点となり、弁護側、検察側双方の鑑定人を呼ぶなど審理が続く。早ければ夏から秋にかけて判決が言い渡される予定だが、それで全ての裁判が終わるかは分からない。その間も袴田さんの「死刑囚」の身分は変わらず、当然ながら、有罪となれば再収監の可能性も残る。

買ってくれた缶コーヒー

 年明け1月7日には西嶋勝彦弁護団長が82歳で亡くなり、16日の公判では、秀子さんが西嶋弁護団長の遺影を手に地裁に入った。私の手元に届いていた西嶋弁護団長からの今年の年賀状には、「袴田巌さんをもうすぐ死刑台から取り戻す。何と半世紀かかった」との短文に「春が来る 袴田姉弟 雪冤だ」「小春日に 駿河路通い 車椅子」との俳句が添えられていた。弁護団事務局長の小川秀世弁護士(71)は「徹底的に過去の資料を読み返す」と正月返上で、時に解熱剤を飲みながら、公判の準備をする。関係者にも、残された時間は長くない。

 秀子さんは連日の再審公判に、弟の代わりに出席している。10年前、静岡地裁の決定を受け「これで一生懸命やってきてくれた支援者や弁護士に顔向けできる」と胸をなで下ろした。今、「(逮捕から)47年も57年も同じ。長いとかもう感じない。権力と戦ってるだもん。でも、今までは見えない権力と戦ってた。それが(再審で)見えるところに来た。今は相手がよく見える」と前を向く。だが、数年前からは補聴器が欠かせなくなった。毎朝1時間のストレッチ体操と、2時間の昼寝で体調を整える。

 昨年12月28日の午後2時過ぎ、袴田さんは近くの公共施設で日課の散歩をするために自宅を出た。いつもその施設まで乗せてもらっている支援者の車を素通りして、この日は約50メートル先の自動販売機まですり足でゆっくりと歩いていく。財布から取り出した10円玉を、支援者に数えられながら12枚。ガシャンと落ちた缶コーヒーを、袴田さんは「どうぞ」と私に手渡してくれた。

「私にくれるんですか」──。思わず声が出た。購入したのはこの1本だけ。缶コーヒーはホット。あいさつをしても無反応だったのに、私という存在と季節を認識し、気遣ってくれている。過ぎ去った時間は元に戻らない。拘禁症状との闘いはこれからも続き、老いも一段と進行する。手渡された缶コーヒーの温もりからは、それでも生き抜くという力強い意思も込められていたような気がした。

(荒木涼子〈あらき・すずこ〉編集部)


ことば 袴田事件

 静岡県清水市(現・静岡市清水区)で1966年6月30日に起きた、みそ製造会社の専務一家4人が殺害され、自宅が放火された強盗殺人事件。住み込み従業員だった袴田巌さんは8月18日に逮捕され、1日に最長16時間を超えた取り調べの末、20日目に「自白」した。12月の初公判から一貫して無罪を主張するも、68年9月に静岡地裁で死刑判決、80年11月に最高裁で確定した。

 事件発生から1年2カ月後、工場のみそタンクの底から血痕の付いた「5点の衣類」が見つかった。公判で弁護側が犯行時の着衣とされたパジャマの証拠能力を疑問視した約4カ月後で、静岡地検は犯行時の着衣を5点の衣類に変更した。

 裁判のやり直しを求めた2008年からの第2次再審請求審で、静岡地裁(村山浩昭裁判長)が14年3月に再審開始を決定。死刑と拘置の執行停止も決定し、袴田さんはその日のうちに釈放された。地裁決定は5点の衣類について「事件から相当期間経過した後、みそ漬けにされた可能性がある」と指摘し、衣類の検証実験を「新証拠」とした。

 その後、東京高裁での即時抗告審、最高裁決定による高裁差し戻し審をへて、23年3月20日に再審開始が確定。静岡地裁で10月の初公判以降、今年2月まで9回の公判が開かれており、この5点の衣類についた血痕の付着状況などが争点となっている。


週刊エコノミスト2024年3月19・26日合併号掲載

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