マルクス主義への懐疑と批判⑯公害規制が経済発展を制約すると考えるのは誤り 小宮隆太郎
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企業の国際競争力を低下させ、産業発展を阻害するという観念のために、政府が公害規制に対して消極的だったとの指摘は錯覚に過ぎなかったと筆者は指摘する。
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こみや・りゅうたろう 1928年京都市生まれ。52年東京大学経済学部卒業。55年東京大学経済学部助教授。64年米スタンフォード大学客員教授。69年東京大学経済学部教授。88年通商産業省通商産業研究所所長。89年青山学院大学教授。東京大学名誉教授、青山学院大学名誉教授。戦後の日本の近代経済学をけん引する一方で、後進指導に尽力し、政財官界に多くの人材を輩出した。2022年10月死去。本稿は本誌1970年11月10日号に寄せた論考の再掲である。
公害が解決の難しい深刻な問題にみえるのは、かなりの程度錯覚に基づく。公害をめぐって、その源泉である企業と被害者である近隣の住民や国民一般の利害が対立すると考えるのは、大体において錯覚にすぎない。公害規制が経済発展を制約すると考えるのは誤りであり、両者はなんら相反するものではない。
公害防止費用の「帰着」
たとえば火力発電所から排出される亜硫酸ガス、あるいは自動車の排気ガスに含まれる有害な物質の量を、現在の何分の1かに減らすことを考えてみる。他者に及ぼす公害の悪影響を、その源泉である企業や自動車の持主が自発的に防止しようとすることは、稀ではないが例外的である。したがって法律によって一定の基準を設け、それを厳しく実施しない限り公害は解決しない。さて錯覚は、そのような公害規制が行なわれたときに企業が損失を蒙り、経済発展が阻害されるであろう、と考えるところにある。
一般的に資源の最適配分の観点から考えて、公害を防止するためのコストは政府や地方自治体(納税者)が負担すべきではない。公害防止のコストは、直接的には公害の源泉となっている企業(自家用の自動車の場合は、その持主である個人)が負担すべきである。ところが、企業はそのようなコストの最終的な負担者ではなく、公害防止のコストも最終的には個人によって負担される。この負担のパターンを公害規制の「帰着」の問題と呼ぼう。
この帰着の問題について、基本的な考え方を簡単に述べておく。経済学的な観点からの負担や帰着の分析は、個人のレベルに還元してはじめて意味がある。企業に対する法人税課税に関して、法人実在説とか法人擬制説がいわれるが、そういう「説」は法律学(会社法)上の観念で、経済分析にとってはなんら有意義でない。
公害の場合でも、たとえば火力発電所や重油ボイラーに脱硫装置をつけたり、排気ガスを十分に浄化する装置を自動車にとりつけたりといったときに、そのコストは企業が負担すべきであるといっても、「東京電力」や「トヨタ自動車」と書かれた標札が、コストを負担するわけではない。電力料金なり自動車の価格の値上げを通じて消費者が負担するか、それとも配当の減少と株価の値下がりを通じて株主が負担するか(利潤が減れば法人税が減少し、政府財政、納税者一般がその一部を負担することになる)のいずれか(およびその組み合わせ)である。
ここで詳しく説明は避けるが、労働者や株主の負担は、長期的にみれば、労働と資本の移動を通じて経済全体に広く薄く拡散する。これに対して、その企業の製品の消費者の負担は恒久的にハッキリとした形をとって残る。たとえば、ビールにはサイダーやコーラ等の清涼飲料に比べて非常に重い税金がかけられているが、そのためにビール会社の従業員の給料が他の会社に比べて低いということもないし、ビール会社の利益率も、決して低くはない。ビールの税金は、ビールを飲む人たちが負担しているのである。公害コストの負担等も、基本的には間接税の場合と同様に消費者であるといえる。
さて、あまり厳しく公害を取締まることは産業の発展を阻害する、あ…
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週刊エコノミスト
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