ドル・円相場の実勢が購買力平価より円安である理由を考える 橋本将司
名目のドル・円相場を、2国間のモノの値段やインフレ率の違いによる「購買力平価」と比較すると、さまざまな経済の構造変化がみえてくる。
ドル・円相場でここ数年、大幅なドル高・円安が進んでいる。2022年10月には、1990年8月以来、32年ぶりとなる1ドル=150円台を突破し、現在も150円前後での推移が続いている。足元のドル高・円安の特徴の一つは、実勢レートが「購買力平価」から大幅に乖離(かいり)する状態が続いていることだ。その背景を探ることで、さまざまな構造変化が見えてくる。
図1は、国際通貨研究所が公表している73年を基準とするドル・円相場の「購買力平価」だ。22年以降、実勢のドル・円相場の購買力平価からの乖離が、ドル高・円安方向へ大幅に進んでいることが分かる。購買力平価とは為替相場を評価する際の一つの考え方で、日本と米国など異なる国の間で、同じモノ・商品が国際的に同じ価格になるように為替レートが決定されると考える。
例えば、リンゴ1個が日本で100円、米国で1ドルであれば、為替レートは1ドル=100円に決まるとされる。もし、為替レートが1ドル=100円のままで、日本のリンゴが110円に値上がりすると、日本で米国から100円(=1ドル)の安いリンゴの輸入が増加し、リンゴの輸入代金を手当てするための円売り・ドル買いも増加するため、為替レートはドル高・円安方向へ変動する。
最終的に1ドル=110円になると両国のリンゴの値段が同じになり、為替レートの調整は終了する。この例からも分かるように、購買力平価ではインフレ率が高い国(この例では日本)の通貨が下落することになる。また、この例のように、商品の価格を直接比較して同じモノは国際的に同じ値段になると考えた為替レートを「絶対的購買力平価」という。
これに対し、ある基準時点からの両国の経済全体のインフレ率の違いから、為替レートのあるべき水準を測ったものを「相対的購買力平価」という。相対的購買力平価の水準は、基準時点をいつに置くかによって影響を受ける。そのため、水準そのものではなく、異なる時点間で為替レートが購買力平価のトレンドに対して割高・割安方向のいずれに推移したかをみるものとなる。
2~10年のサイクルも
図1も相対的購買力平価をみたものであり、日米の消費者物価や企業物価ベースのインフレ率それぞれで購買力平価を算出している。米国のインフレ率がほぼ一貫して日本より高かったことから、購買力平価も趨勢(すうせい)的にドル安・円高方向で推移してきた。これに対し、実勢のドル・円相場も1970年代初頭の変動相場制移行以来、上昇・下落のサイクルを形成しつつ、長期的には購買力平価に沿ってドル安・円高が進んできた。
もっとも、近年は購買力平価の趨勢に反し、ドル高・円安の動きが目立っている。その要因の一つには、構造的なファンダメンタルズ(経済の基礎的条件)の変化が挙げられる。先のリンゴの例でいえば、日米両国のリンゴの品質は同じとの暗黙の前提を置いていたが、仮に日本のリンゴの品質(商品競争力)が低下したと考える。この時、両国のリンゴの国内価格が不変であれば、購買力平価は1ドル=100円のままである。
しかし、実勢のドル・円相場は、日本のリンゴが、品質が悪化した分だけ安くなるようにドル高・円安となる必要がある。つまり、ドル・円相場でみると、ここ数十年の日本の産業の国際競争力の低下(≒輸出減・輸入増)などが、購買力平価に対する緩やかな円安に結び付いている可能性がある。ただし、こうした構造変化はごく緩やかに進むため、急激な円安要因にはなりにくいと考えられる。
このように、為替レートに表れる長期トレンドは、購買力平価(インフレ率格差)だけでなく、国際収支動向や産業競争力などファンダメンタルズによっても形成される。ただ、為替レートはこうした長期トレンドだけでなく、2~10年程度のサイクルによっても変動し、通常は購買力平価を含む長期トレンドから乖離して推移する(図2)。
円安の好影響は限定的
このサイクルは、投資家の各種通貨建て金融資産への国際的投資活動の影響を強く受けて形成され、そうした投資活動は米国を中心とした世界の景気サイクルや金融政策サイクルの影響を大きく受ける。ここ数年のドル高・円安も、米連邦準備制度理事会(FRB)による大幅な政策金利引き上げにより、日米の長期金利(10年国債金利)差がドルに有利な方向へ大幅に拡大したことによる。
その中でも現在、大幅なドル高・円安が進んでいるのは、すでに述べた通り水面下で緩やかな円安のトレンドが進んでいる可能性があることに加え、①数十年来の世界的なインフレ圧力による、日本以外の金利の大幅な上昇、②近年の米経済独り勝ちによるドル高、③日銀による異次元の金融緩和の影響──などが、ドル高・円安方向へサイクルを増幅させたとみられる。
特に、①に関連しては、1990年代半ばごろから進んだグローバリゼーションの進展による世界的なインフレ率と長期金利の低位安定の時代が、コロナショック後の世界経済の構造変化やグローバリゼーションの後退などから、節目を迎えている可能性がある。主要国中銀はインフレ率の上昇により大幅な政策金利引き上げを余儀なくされ、日米金利差は00年代初頭以来の水準まで拡大してドル・円相場を押し上げた。
購買力平価に比べたドル・円相場の趨勢的な円安方向への乖離は、それだけ日本のモノが海外からみて安くなっていることを意味する。当然、海外への輸出やインバウンド(訪日観光客)需要の増加が直接的な円買い・円高要因になるほか、それによる景気好転も日本の金利上昇圧力・円高要因となり、購買力平価との乖離の一定の縮小圧力となる。
もっとも、輸出やインバウンド関連の増加額は、為替レートのサイクルを形成している膨大なクロスボーダー金融取引額に比べると小さく、実際の為替レートへの影響は限定的だ。近年、円安による日本経済への好影響の低下が指摘されているように、輸出やインバウンドの増加も日本の景気の飛躍的な改善・大幅な金利上昇にはこれまでのところ結び付いていない。
今後、主要国経済が底堅く推移し、各国の政策金利・長期金利が高止まりする限りは、ドル・円相場も高値(ドル高)での推移が続きそうだ。仮に主要国で景気が悪化し、政策金利が大きく引き下げられるようなことがあれば、ドル・円相場もサイクルに沿って相応に円高方向に振れるとみられ、購買力平価との乖離も一定程度、縮小していくことになるだろう。
(橋本将司〈はしもと・まさし〉国際通貨研究所上席研究員)
週刊エコノミスト2024年4月16・23日号掲載
世界経済入門 ドル・円相場 「購買力平価」から大幅乖離 日本の競争力低下を反映か=橋本将司