④ユダヤ人の第二神殿の再建と祈りを捧げる「嘆きの壁」 福富満久
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古代ローマの将軍に故郷を追われ、逃げ延びた欧州ではイエスを殺害した「神殺し」の汚名に加えて、高利貸しや徴税請負による極悪非道なイメージから反ユダヤ運動が勃発。そして、ナチスによる大量虐殺へ。
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新バビロニア王国のネブカドネザル2世がユダ王国を滅ぼし、イスラエル人をバビロンに移住させた事件、いわゆる「バビロン捕囚」。この事件によってユダヤ人を土地から引き離したバビロニアが、アケメネス朝ペルシャに滅ぼされると、ペルシャ王キュロス2世は、バビロンにいたユダヤ人たちを解放し、エルサレムでの神殿再建を許可した。第二神殿は紀元前520年から再建工事が始まり、紀元前516年ごろに完成したとされる。
第二神殿建設後も約200年間、ペルシャの庇護(ひご)下にあったが、ペルシャが紀元前4世紀にアレクサンドロス大王に滅ぼされると、パレスチナはプトレマイオス朝エジプトの庇護下に入り、次にセレウコス朝シリアの庇護下に入る。ギリシャ人とその文化もパレスチナに流入し始める。
エルサレムの都市としての規模と人口は、第二神殿時代後期にピークに達したとみられている。古代ローマの博物学者プリニウスは著書『博物誌』の中でエルサレムを「東洋で最も輝かしい都市」と称賛したとされる。
だが、紀元前63年、将軍ポンペイウスにエルサレムが包囲され、エルサレム攻囲戦が行われると、事実上パレスチナはローマ帝国の属州ユダヤとして支配され統治されることになり、西暦70年ローマのティトゥス将軍によって神殿が破壊され、ユダヤ人が神に約束されたと信じた土地からユダヤ王国の痕跡が今度こそかき消されてしまうのである。ユダヤ人の集団自殺者を含めると100万人以上が、戦いの犠牲になったとされる。
現代のユダヤ人が祈りを捧げる「嘆きの壁」は、高さ21メートルあり、下から11段目までが、この第二神殿の壁の一部である。よく見ると石の大きさが違うのが分かるだろう。
ユダヤ教徒の考える「終末」とは「長く続いてきた悪の時代が終わる時」である。それをユダヤ教ではメシア(救世主)が出現する時だと考える。だが、彼らにメシアはついぞ現れなかった。キリスト教徒たちはイエスこそメシアだと言い張ったが、ユダヤ教徒たちは断じてそれを認めなかった。彼らにしてみると自分たちが殺した者が、神であるはずがないからだ。その後、この「神」殺しはユダヤ教徒たちに災禍になって襲いかかることになる。
その後のユダヤ教徒たち
世界中に散らばったユダヤ人は、ローマ帝国にそのまま身を寄せた者もいたが、主要な移住コースは北アフリカを通って、ジブラルタル海峡を渡ってスペインに移住した者たちだった。
ところが、スペインでは14~15世紀にかけてペストによる大幅な人口減少、貧民の増加、社会不安に見舞われた。イエスを殺害した「神殺し」の汚名に加えて、高利貸しや徴税請負による極悪非道なユダヤ人のイメージから反ユダヤ運動が1391年にセビリアで勃発。コルドバ、バレンシア、バルセロナなど沿岸部の主要都市に通商活動によって飛び火し、全国規模の反ユダヤ運動とシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)破壊を誘発した。
ユダヤ人たちは豚肉を口にしないことや安息日の違いなどからユダヤ教徒だと密告され、場合によっては火あぶりの刑に処せられる場合もあった。そうした恐怖から改宗した者が…
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週刊エコノミスト
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