検証・戦後日米首脳会談 第5回 カーター新政権から届いた手紙 元首相・福田赳夫(下)(1991年2月5日)
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週刊エコノミストは1991年1月~5月、戦後の日米首脳会談の裏側で何かあったのかを歴代の首相、外務大臣、官房長官などの証言を基に総点検した連載「検証・戦後日米首脳会談」を掲載しました。「エコノミスト創刊100年特集~Archives」でこれを再掲載します。※記事中の肩書、年齢等は全て当時のままです。
◇日本機関車論と財政赤字の挟み撃ちで苦しむ
「経済の福田」と自他ともに認める福田赳夫。だが、首相就任時は最悪の状況だった。狂乱物価は収束したものの、財政赤字は膨張を続け、その一方で、米国をはじめ列国からは内需拡大を迫られていた──。
語る人=元首相・福田赳夫(下)/聞き手=本誌編集委員・鈴木健二
── 福田内閣時代の日米首脳会談は4回行われます。77年3月と78年5月がワシントンで、それから77年5月のロンドン・サミットと78年7月のボン・サミットの都合4回です。私なりに議題を整理しますと一つは国際経済、二つが核エネルギー政策、三つ目はアジア政策だったと思います。そこでまず国際経済からお伺いしたい。国内的には狂乱物価と財政赤字、一方国際的には内需拡大を求める日本機関車論と、相反する経済政策を迫られて、大変だったと思いますが。
悶死?した愛知蔵相
福田 私は65年7月、佐藤内閣の大蔵大臣になりまして、そのときはちょうど世にいう65年不況中。つまり池田内閣の高度成長、その反動不況ですね。株価が1000円を割り込まんとするとか、山一証券が倒産寸前まで追い詰められるとか、山陽特殊鋼という事業会社が倒産するとか‥‥。日本経済がぬくもりを持ちうることはもはやありえないのではないか、ということまでいわれるよ…
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週刊エコノミスト
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