主流派経済学を超え“マルクス”を継承する 水野和夫
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経済学から「心」を奪った新古典派には、行き詰まった資本主義を立て直すことはできない。
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「金利が経済の“体温計”の役割を果たさなくなった」──。私がこう直感したのは1995年以降、日本の長期金利(10年国債利回り)が低下し続けるのを目の当たりにした時だった。
97年9月12日、日本の長期金利が初めて2%を割り込み、98年8月以降、それまで世界最低記録だった1619年のイタリア・ジェノバの1.125%を379年ぶりに割り込んだ。90年のバブル崩壊後、不良債権問題に揺れた日本経済は低迷したが、この間、政府は財政支出を拡大し、日銀は実質ゼロ金利にするなど景気のてこ入れ策を講じていた。そのせいか、景気は少し上向く局面もあったが、長期金利はまったく反応せず、低下を続けた。
2013年からのアベノミクス以降、円安・株高は続くが、現時点でも長期金利は1%を割り込み、好景気の実感もない。
長期金利は、実物投資に対するリターンとも考えられる。景気変動や取引先の破綻リスクなどを織り込むと、2%を下回る水準では製造業はじめリアルなビジネスでは投資先がないことを示す。つまり近代資本主義のシステムが日本では機能しなくなったことを意味する。
長期金利が1%にも満たず、一時はマイナス圏にあった日本で、企業がROE(株主資本利益率)8%を目指すと何が起こるのか(2014年8月公表の通称『伊藤リポート』)。利子率と利潤率の関係は従来、利潤率は利子率に1.0%弱のリスクプレミアムを加えた水準だったので、利子率が1.0%を切ると、資本家は満足できなくなる。
利潤率を引き上げるには普通の実物投資では1%未満のリターンしかないから、コストを下げて無理やり8%にするしかない。要するに人件費を削って利益を出しているということだ。格差が拡大する理由の一つがここにある。
08年のリーマン・ショック以降、持続不可能となった米国型資本主義が延命されてすでに16年が経過する。世界で格差拡大や国民の分断が著しくなる中でも、所得や富の分配を行動に移す動きは緩慢だ。なぜか。私は、現在の資本主義(新自由主義)の理論的支柱となっている主流派経済学(新古典派)に問題があると考えている。
近代経済学の祖アダム・スミスにさかのぼって検討してみよう。
オーストリア学派
新古典派の原点は、アダム・スミスに始まる古典派である。主著『諸国民の富(国富論)』で論じた「見えざる手」を古典派や新古典派は重視する。すなわち自由主義経済の理論で、富の源泉を人間の労働に求める(労働価値説)。労働生産性を高めるためには市場での自由な競争が不可欠で、国家は企業の経済活動に対して介入や規制をすべきではないと考える。当時の重商主義批判でもあった。
古典派を発展させたのが、英国のウィリアム・スタンレー・ジェボンズ、オーストリアのカール・メンガー、フランスのレオン・ワルラスの3人。各自が限界効用に基づく価値理論を発表し、限界分析の方法を本格的に経済学に取り入れた経済学者だ。これが生産、分配の理論になり、現在の理論経済学の基礎となっている(「限界革命」)。
古典派は、商品の価値は生産費や投下労働などによって決定されるとする供給側のみの価値理論だったが、ジェボンズら3人が追加的な消費から得られる効用(満足度)の増加分、つまり限界効用に基づく価値理論を確立した。
新古典派は、自由な経済活動や利潤追求を通じて市民の豊かさや幸福感を高めることを目的とする。ただ、スミスが『国富論』で論じた「諸国民の富」を自由で平等にもたらす目的が…
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