検証・戦後日米首脳会談 第10回 ロン・ヤスでフランスを封じ込め 元首相・中曽根康弘(上)(1991年3月19日)
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週刊エコノミストは1991年1月~5月、戦後の日米首脳会談の裏側で何かあったのかを歴代の首相、外務大臣、官房長官などの証言を基に総点検した連載「検証・戦後日米首脳会談」を掲載しました。「エコノミスト創刊100年特集~Archives」でこれを再掲載します。※記事中の肩書、年齢等は全て当時のままです。
◇ウィリアムズバーグ宣言づくりで火花散らす
1983年1月18日。ブッシュ副大統領の開いてくれた晩餐会で、中曽根首相は不覚にも涙をこぼした。計算したわけではなかったろうが、これがロンの心をつかむ。ウィリアムズバーグ・サミットの写真撮影でも「自然であって自然でないような形」で、ヤスはロンの側に立った──。
語る人=元首相・中曽根康弘(上)/聞き手=本誌編集委員・鈴木健二
── 中曽根さんは5年の長期政権を維持されたこともありますが、実に23回外遊、東京サミットを主催したりしておそらく首脳会談は100回近くを数えると思います。85年3月のゴルバチョフ・ソ連書記長(当時)との会談でしたか、「外交は気迫だよ」と語っていたのが印象に残っています。そこでまず、首脳会談に臨むにあたっての心構えについてお聞かせ下さい。もしあるとすれば、のことですが。
首脳会談はメモ1枚で
中曽根 それは個性と見識と気力だ。私は何回か経験して感じたことは、やっぱり人間性あるいは個性、それを自然体で出すこと──ということだね。みんな目の肥えた人たちだから、化粧していてもわかるもんだよ。
首脳会談というのは、また独特の目で双方が相手の目方を測っている、相手方の。とくに随伴してきた官僚、シェルパたちもやっぱり鋭い目で見ている。万人の目が見ているわけだから、結局、人間性、個性というものを正直に露出してしまう。政治家としての筋というか、信念というか、あるいは強さというか、幅というか、そういうものが自然に出てくる。相手もそれだけの人…
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週刊エコノミスト
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