平安後期に権力を握った「女院」を解説 今谷明
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古墳時代では、大王の没後、殯(もがり)という葬送儀礼が行われる。その主催者は殯宮(ひんきゅう)奉斎女王といって、大王の嫡妻にあたる女性であった。古代に女帝を輩出したのは、このような儀礼の存続と関係が深い。
ところで、平安中期の日本は女流文学が栄えたが、これを担った女房らが仕えた中宮・皇后ら高貴の女性は“女院(にょいん)”と呼ばれ、後宮だけでなく一般の政務にも力を振るった。
鎌倉初期になると、京都では後鳥羽院の乳母だった卿二位局(きょうにいのつぼね)(藤原兼子)と鎌倉の北条政子が権力を握り、次期将軍の地位を二人で談合して決定したりした。歴史家でもある慈円(天台座主(ざす))はこの状況を目のあたりにして「女人入眼(じゅげん)(本来は新作の仏像などに開眼をすること)の日本国」と表現した(『愚管抄(ぐかんしょう)』)。
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